となりの雑談71「反応で生きる」

またまた心に刺さる回があった。
本当に、彼女たちの話はいつも心に刺さる。


人の物の言い方は捉え方が出ると話している、わーその通り。
何か自分の出来事の報告をする時に「(何か嫌なことを)◯◯された」と話す人がいるという話題になっており、あああ、アタシにも心当たりありすぎ、と思って聴いていた。
被る側の人の話し方だと。
この認知だと何か起こった時に「◯◯された」と反応した怒り(プラスなら嬉しい反応だけど)で生きている、これが強すぎるのはいかがなものかという話題。
その時に自分がどう感じたか、という話にまでならないと。


されたことで日々が出来ている(記憶されている)人がいる。
これは何か他の捉えで認知を上書きしていかないと、全部被る側として捉え、何か事があった時に反応として生きることになるという。
過去に怒りがある人にこう捉える人が多く、その後もずっと「人に何かされるんじゃないか」と警戒しているという。
育ちの中で、自分が生きてきた中でそういう風にしか認知が出来ず、さらにそうすることで自己防衛する必要があったからそうしてきたけど、そのままの認知にしがみついていると、その後の生き方の認知も「いつも何かに警戒する」ことになってしまう。わーすごい、分かる。



これは療育で出会った子にもいたなぁ。
「◯◯ちゃんに△△された」と大人にいつも言ってくる子、それで大人を自分になびくようにする子がいた。
被害妄想的に見えることがあるけど、事実のやりとりだったり、本人にとってはオオゴトなのだ。



自分はどう感じたか、自分はどうしたいかという自分がない、と。
自分がまず自分をコントロール出来ておらず、自分の決断を他人に委ねがちになってしまう。
わーこんなところにも自分軸の話。
「◯◯された」という時に自分はどう思ってどう対応したか。そこまでこの話にあるとまた違うのかしら。その度に反応して怒ってたら大変だけど。
他人の一挙手一投足をすべて受けすぎており、受け流す、聞かないという反応をしてもいいのにそれを全部受け取って「被る側になりがち」だと。
それもアピールのひとつになってしまうのかも。「アタシこんなに大変なんです」と。
それも自己防衛のひとつかな「大変だったね」「嫌だったね」と言ってほしい。それも満たされ無さや承認欲求なのかもしれないな。
ははーなるほどな。
被害者って楽だもんな。手っ取り早く人に慰めてもらえる。

この「全部拾って反応する」のって、SNSの炎上もこれかもなぁ。不倫の謝罪会見に怒る人、人の失態や失言に怒る人。
これも被る側の視点の人が反応するのかしら。
それと単にストレスを発散し、キレるきっかけを探している人もいると思う。

でもこのタイプの人は話が通じない、と。
本人にとっての事実があり、されたされてない、あなたには分からないになる、と。
ってことは話しても無駄ってことか。


はなまるの話も興味深かった。
結局、他人の言動に左右されない、寄りかかりすぎないってことだ。
自分次第ってことだよねぇ。自分を認めていく、受け入れていく。
あああ。結局そこが着地点。


あー人のふり見て我がフリ直せ。
自分と相談して、自分で決める。
認知を変える刺激に会いに行こう。

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