人々の不安を受け止める機能としてのジョーカー

映画『ジョーカー』におけるジョーカーは何を象徴しているのかをかんがえていく上でまずは一般的なこの映画についての評価をみていきたい。この映画の描写の中で最も注目するべきは、オリジナルのバッドマンでは生粋の悪役であるジョーカーには実は情状酌量の余地があるというように描写しているところだ。それどころか社会的に虐げられる弱者であり、悪役になってしかるべきとさえ思わせるような悲惨な状態に彼は置かれている。貧困で管理の行き届いていないマンションに住み、病気を患う母を一人で介護しながら、自身は精神病を患っており、しかもその社会保障は打ち切られ、いわれのない暴力にさらされ、仕事も解雇されてしまい、人からは不気味だと思われ、さらには過去に児童虐待を受けていたことがわかる。
このような主人公アーサーの姿に人々はそれぞれが抱える社会に対する不安をうつしこむ。不条理に対して暴力で報復していくジョーカーの姿にゴッサムシティの市民が同調していくように、観客もまたジョーカーの誕生を求めるとき、ジョーカーは怒りを象徴しているといえるだろう。しかしそのように単純にすませることができるのだろうか。

作中で明確にアーサーの(ジョーカーとしてではない)行動の動機として語られるのはコメディアンになりたいという夢である。しかしアーサーが一般的な笑いを理解していたのかは怪しい。アーサーは突然笑い出す病気を患っており、それを周りからは不気味に思われていた。さらにネタを考えるためにトークショーにいくシーンでは熱心にメモをとりながらショーを聞いているのだが、他の客とは明らかに笑いのタイミングが合っていない。一生懸命世界になじもうとまねをしようとしているのだがそれがよりいっそうその異質さを強調してしまうことになっている。ではなぜアーサーはコメディアンを目指すのか。それは母の言葉による部分が多いのではないか。彼女はアーサーをハッピーとよび、「どんなときでも笑顔で人を楽しませなさい」と言葉をかける。家族は母親しかいないアーサーにとって、母親の存在はとても重いものであったといえる。だが明らかにアーサーにとってコメディアンは向いていない。彼のネタ帳(本来は精神病の治療のための日記)はポルノの切り抜きが張られ、「俺の死はオレの人生よりもまともであることを願う」などが書かれ、人を笑わせるための内容にはほど遠い。
ここで述べたいのはアーサーの目指していたところのコメディアンは、結局は内実を伴わない空虚なものである点だ。マレーのテレビショーに出演が決まることになるシーンなどはあるがそれもコメディアンとしての面白さを認められたのではなく障害でうまくネタを披露できない姿を笑いものにするためにすぎない。そしてショー本番でアーサーは自身が地下鉄殺人ピエロの正体であるということを明かし、マレーを殺害する。そこに至ってはもはやコメディアンではない。だがアーサーがそのように空虚であるほど人々は不安をうつしこみやすくなる。ジョーカーの機能として重要なのは主体なくすべての立場の不安を同時に受け止める点ではないか。

もうひとつ気になるシーンがある。アーサーが自分はトーマスの息子なのではなないかと考え、ボーイに扮して劇場に忍び込むシーンだ。潜り込んださきの劇場ではそのスクリーンに向かい合う観客たちが映される。それはまるで現実に映画を見ている観客たちを正面から監視カメラで写したかのようである。ただしそれは鏡ではない。なぜならばスクリーンに映される観客たちはこちら(現実の観客)と目があわないように撮影されているからだ。それはたとえるならば家電量販店のビデオカメラ売り場の実演販売でみられるようなものだ。そこにはビデオカメラが回されていて、その映像を別のディスプレイで確認できるというものがある。たいがい客の目線よりやや上にカメラは設置されており映像には自分が写っているのだが、ディスプレイを確認する以上自分と目が合うことはない。それと同じように鏡ではなくカメラなのだ。そこには自分をみていながら違う角度であるようなズレがある。ここにおいて観客はアーサーとの断絶が示されており、なおかつその断絶は真正面から投影されたようなものではなく、ズレがあるものだということがわかる。人々の不安を移し込むにはこのようなズレの表現は普通ノイズになるのではないか。

しかしそれでもなお観客が共感することができるのだとすればそれは、不都合な条件は無視してしまっているからだろう。自分にとって不都合な部分をみないようにするという態度はアーサーの幻覚にも見いだせる。同じマンションの黒人女性を恋人として登場させるときに彼女の子供を登場させないのだ。そしてこれもまた指摘しておくべきだが、幻覚が幻覚であるとわかるのはその女性の部屋に再び訪れたときである。そしてそのとき彼女は「子供がいるの、帰って」と言う。現実を意識させるためにこどもの存在が示されているのだ。ここで気づくことがある。このようにしてアーサー自身は自分にとって不都合な部分を自覚するようになった。そしてこの世の中には救いなどないことに気がついたからこそ行動を起こしたのだ。それに対して観客はどうなのだろうか。むしろ観客はアーサーが否応なくつきつけられ乗り越えるしかなかった無自覚に対して、無頓着なままでいるのではないか。

現在の世界的な潮流として他の国や他者に対して不寛容な政策をとる政府が増えている、あるいは支持を受けるようになってきている。その最たる例はアメリカのトランプ大統領だが、ドイツでも難民排斥を訴える党派が議席をのばしており世界各国でもその広がりは大きい。特に難民問題などにその不寛容さは現れているように思える。不寛容さは想像力の欠如だ。この映画に共感する場合の危うさに感じるのは、生きづらさへの共感であって生きづらさを生み出すことへの無頓着である。だれもが被害者のような面をしているともいえる。そこにいたってジョーカーが象徴するのはもはや怒りではなく、身勝手さではないか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?