見出し画像

戰蹟の栞(73)

安徽省(アン・ホウイ)

安徽省概説

安徽省略圖

〔安徽省概説〕
 パール・バック女史の『大地』は日本の續書界を風靡した。『大地』の中に出て來る王龍と阿蘭は實在の人の如く人の口から口に傳へられた。彼等の生まれたのは安徽省である。死んだのも安徽省である。こゝは『大地』の中の王龍、阿蘭に表象された人たちが住んでゐる。同じやうな苦しみを味ってゐる。『大地』の中で一番興味を惹いたのは、水害の模様である。それは安徽省の名物であるからである。安徽省の地圖を開いてみる。安徽省には北部、唐ぬ、揚子江流域湖北よりに無數の湖が在る。そして特に多いのは北部地方である。北部には西湖、東湖、瓦埠湖、洪澤湖などである。これらは江蘇、安徽省境の洪澤湖に注ぐ淮河を中心に西から東へ展開してゐる安徽省北部の湖群である。ところでこれらの湖は全部細流小河の水を集め、一本の紐帶に淮河を傳って西から東へ移行して洪澤湖及び高郵湖(カヨユウホウ)に落ちてゐる。淮河の落ち込む洪澤湖は、他の諸河川を集めてゐるが、出口は一つ東方の大運河に連なってゐるのである。地圖の上では大運河は一條の靑い線で、洪澤湖の水面を調節する水道のやうにも見える。この水は遠く北方黄河、白河を越えて通州に通じ、南方揚子江の水に連なり、江南の小細流や湖水にも通じ、錢塘江を越えて寧波にまで續いてゐるわけである。だから、大運河が洪澤湖の水の調節水道の役割を果たしてさへおれば問題は無いのであるが、實際はこの大運河が安徽悲劇の源泉をなしてゐるのである。といふのは、支那三大土木工事の一たる大運河も、支那歷朝の二百年に亙る放任政策のため一向手入れがされず、浚渫が行はれずに今日に來た。改修工事といへば出鱈目な護岸工事だけである。ただ無暗矢鱈に土堤を高くして來たに過ぎないのである。こんなやり方であるから、大運河の底は、附近の平地よりは高い處に在る。まるで大平原に架せられた水道のやうになってゐるところが多いのである。これでは洪澤湖の水の捌け口は無いことになる。これが安徽の悲劇を造るのである。雨期が來ると奥地の湖や淮河の增水が、袋である洪澤湖に押し込んで來る。が、この水は捌け口が無い。これが次第に水嵩を增して、遂に氾濫を起こし、淮河傳ひに上流に押し上げて行く。その上に大運河の堤防でも切れやうものなら、大運河の水が低い湖に押し込んで來るのである。これが北安徽平野から、江蘇省の一部に大洪水を起こすのである。その廣さは英本國とほぼ同様の地域に達するといふのである。雨期があまり續くと安徽の人たちは、この洪水の恐怖に脅えねばならないのである。年々歳々、安徽の洪水は續き、呪ひの水に對する宿命は、豐沃なる安徽省を攻めさいなんで來たのである。旱魃・風害・蟲害と水害は支那農民の四大天災とされてゐる。これらは方法によって何れも或る程度逃れられるのだが、支那では久しく為政者が搾取と内戰に氣をとられ、第一義の政治をかうした方面に行はなかった爲である。然して、國民政府はこの點に力を注がんとし、導淮問題は重大國内問題となし、計畫だけは立派に進めたが、未だ緒に就かず、計畫圖だけに過ぎない状態である。この四大天災は安徽にも絶えず訪れるが、水害は地理條件と相って最も暴威を逞しうして來たのである。

〔沿革・面積・人情〕
 安徽省は北部はこんなところなのである。随って米騒動の絶え間なく、流民が南京方面に屡々押し出し、當局を苦しめて來たのである。パール・バックが『大地』の舞臺をこゝに求めたのは、彼女がこの景觀に屡々接したからである。同省は江蘇省の西南地續き、揚子江の南北に擴がってゐる。一四一、九五八方キロの面積に二千萬の人口が在る。省内安慶、徽州兩府の頭字を取って安徽の名前が生まれ、嘗て安慶附近に皖白の國があったところから皖の別名がある。安徽省は揚子江南部と、揚子江流域たる中央部と、北部の三地帶に分けて見ることが出來る。南部は山岳地帶、風俗も敦厚、徽州一帶の南地、住民は古の山越の遺裔といはれ言語も異なる。揚子江南方は惠まれたところである。中央部は揚子江地帶でその北部は河南から來る淮山脈が各地に山丘を作り、その間と揚子江岸に沃野を展開し、人情風俗は溫雅である。北方卽ち淮河流域は」一望千里の平原で、地味、住民、言語ともに北方支那と共通してゐる。こゝが呪ひの洪水のセンターなのである。これが中央部にも影響し、安徽省は全體として豐沃なところであり、揚子江、大運河、淮河や鐵道の便に惠まれながら、江畔の諸省中、産業も比較的發達せず、都市も少なく、文化も江蘇、湖北などより遙かに遅れてゐる。
 係る地ではあるが歷史の遺跡も多く、古來老子、明の太祖など輩出し、淸末には李鴻章、段祺瑞以下多數の大政治家を輩出し、國民政府樹立後まで、安徽派の名は天下に響いてゐた。これは段祺瑞を首領に戴く安徽出身者を中心に福建出身者などが結びついた政治勢力のことであった.

〔交通〕
 此處の交通は鐵道、自動車道路、水運ともにかなり發展してゐる。鐵道は北京より南京北對岸浦口に到る津浦線の一部が、省の東部を縦斷し、また南京より蕪湖を經て江西境に到る江南鐡道が同省東南隅を走ってゐる。これはやがて同省南部地帶を走って浙贛鐵道に連なり、或ひは蕪湖から揚子江岸を西に走って長沙に出る計畫になってゐた。また蕪湖の北對岸祐溪口から中央部安徽省合肥卽ち、盧州を通り、田家庵に到る淮南鐵路がある。更にこの鐵道は合肥から湖北の信陽に到る合信鐵道建設計畫の基點とされ、合肥、六安間は工事中であった。自動車道路は南部、中央部、北部ともに着々と建設されてゐた。水運は揚子江沿岸最も惠まれ、淮河流域之に次ぐ、これは平時のことで一度雨期となり、洪水が起ると、この機能は呪ひに變化する場合が多いのである。
 今次變においては津浦沿線の大半、揚子江岸蕪湖附近、江南鐡道附近は』我が軍の手中に歸してゐるのである。

〔津浦沿線地帶〕
 津浦鐵道沿線を中心とする地帶は皖東地方と呼ばれ、安徽省中最も交通の整備した地帶であり、開花の地域である。淮河流域の重要地でもある。此の地帶は津浦鐵道が出來てから、急スピードに開けた處が多いが、古來から淮河を中心とする水路交通にも惠まれ、産物の點からも豐かな地帶とされた。南京の對岸浦口(プウコウ)南部突端を起點とする津浦鐵道は江蘇省境を越えて安徽に入り、滁縣、臨淮關、蚌阜、固鎭、宿縣などを經て、省境を突破、北江蘇の徐州に入る。同鐵道東方地區には天長、肝胎、靈壁などの街があり、西部には鳳陽、懐遠などがある。この鐵道線上の諸都市は大體我が占領下に在る。ではこの方面の戰鬪の模様を傳へて置かう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?