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戰蹟の栞(30)

濟南全景(つづき)

〔曲埠(チュウ・フウ)〕
 山東省は聖賢を生んだ土地で、世界三聖人の一人として萬代までも師と崇められる孔子や、孔子の教へを廣く傳へこの教へを組み立てゝ世界的道德教に育てあげた孟子を始めとして、後世までその名を傳へられる多數の儒者が出てゐる。その中の筆頭で聖人と呼ばれる孔子は曲埠で生まれたと云はれ(皇軍が奮闘してその名を知られた、南部山東の沂州が眞の出生地だと説く學者もある。)その地に孔子の墓と廟があり、聖地として我が國に知られ、邦人の參拜する者も少なくない。同地には孔子七十七代の後裔孔德成氏が住んでゐる。歷代の帝王は孔子を先師と尊敬して、弟子の禮をとって祀ったものである。それであるから曲埠の孔子の墓および孔子廟に對して敬意を表したことも非常なものであった。かようにして孔子の一家は約二千四百年に亘り帝王の保護を受け、現在まで續いて墓と廟を守ってゐる。

〔孔子の墓〕
 濟南驛より百三十九粁五、秦安驛より六十七粁五の姚村塞と云ふ處に曲埠驛がある。同驛は曲埠縣城の西方約三里の畑の中に設けられ、驛の附近には三四軒の茶店と石炭問屋運送屋などがあるに過ぎない。併し曲埠詣りの便をはかり、急行列車も停車する。こゝから縣城行の乘物には人力車、一輪車、かまぼこ馬車がある。一輪車は輪の兩側に人間だと各一人乘れるように出來てゐる。一輪車はどんな小徑でも往來が出來る特徴があって、人間を乘せたり貨物を積んだりするが、乘心地が惡く時間が掛かるから、どうしても馬車の方がよい。尤も話の種に二三丁位乘って見るのも一興であらう。
 馬車で二時間餘で縣城に到着するが、中途に泗水(スウシュイ)の流れが在って、增水期は渡し船で彼岸に運ばれ、減水期は背負はれて渡るのである。泗水を渡れば間もなく右に縣城、左に孔林が見える。この孔林又は至聖林と呼ばれるのが、孔子の墓地で、縣城の北方七十丁程の處に在る。そこは老樹の茂った約六十萬坪の大森林で、周圍に高い壁を廻らし、恰も一大城郭の觀を呈してゐる。孔子を始めとして七十餘代の孔子一族の墓と孔子在世中その膝下に教えを聽いた諸弟子の土饅頭の群がった墓とが此の林の中に在るのである。
 孔林の入口には林前村と云ふ村落が在り、この村を通過して、更に至聖林坊を潜れば孔林の境内に入る。その先に三丁ばかりの道が在って、左右には高い丹壁があり、兩側に柏の老樹が見事に並び、中央は三輛位の馬車が並んで進めるほどの廣い道である。行當に樓門があり、こゝに登れば墓地の全體が見える。
 支那では昔から墓地に樹木を植ゑ、その木には土地柄と墓地の主とにより種々のものがあるが、松や柏が比較的多い。近代の支那には樹木が少なく北支那は殊に甚だしい。一寸した森があったらそれは墓地だと思へば先づ間違はない。かやうに墓と森とは深い關係があるので、孔子の墓地を孔林と云ふのである。樓門を潜って少し下り左に折れて二丁ばかり進めば石橋が在り、洙水橋と題した石坊が建てゝある。これを渡ると程なく墓門に達する。此の邊には歷代の石碑が林立してゐる。墓門を過ぐれば老樹の陰に石の柱、石の馬、石の豹、人の石像などが各々一對づつ道の兩側に列んでゐる。そのさきに歷代の帝王が禮拜した亨殿と云ふ大きな殿堂が在る。こゝを過れば巨松、老柏が茂って壯嚴の感にうたれる。右手に楷亭と云ふのがあり、その傍らに孔子の門弟、子貢が手植えしたのだと傳へられる楷(かい)の枯れた大株が殘ってゐる。楷は日本には多分無い木で、棟の類であって、孔林にはこの樹が非常に多い。
 右側に宋の眞宗、淸の康熙帝、乾隆帝などの滯在した亭が並んでゐる。左側に沂國公(孔子の孫の子思)の墓が在り、道の突當りには泗水侯(孔子の長男の伯魚)の墓がある。そこから左に折れると大成王聖文宣王之碑卽ち孔子の碑の前に出る。これが孔子の墓である。
 孔子の墓は幾度か增築されたものと見え、舊記にあるものと現在のものとは、大きさや形などが異なってゐる。今のは高さ二丈餘、周圍は百丈もあって、形は普通の擂鉢山である。墓の四邊には楷、柞(はゝそ)、柏その他の老木が茂っている。摺鉢山の墓地は一面草に覆われ、その草には蓍(めどき)が多い。(蓍と云ふ草は高さ二三尺、葉が細長く分裂し、花は白または薄紅で大體菊花のようなものである。莖の多いのになると一株に五十以上の枝の出てゐるのもある。昔はその莖を取って占筮に用ひた)木も幾株か生えてゐる。墓地の南に墓碑があり、碑面に「大成至聖文宣王之墓」と刻んであるが、この偁號は元の武宗が追贈したものである。孔子も在世中は重く用ひられず、魯の定公に仕へて司冠と云ふ低い官吏であったが、漢の平帝の時,初めて褒成宣尼公と諡し、唐の玄宗の時に文宣王とし、宋の眞宗は至聖文宣王となし、元の武帝に至って大成至聖文宣王と追加した。今の碑面はこの偁號に従って明朝時代に刻んだものである。その後明の嘉靖年間に孔子に王號を付するの可否につき學者が大論爭を遣った後、單に至聖先師孔子と偁するを適當とすると云ふことになった。それから淸朝になって各地の孔子廟は悉くこの偁號を用ゆることになったが、曲埠の墓碑の文字だけは明の初めのまゝで改刻されずに存してゐる。
 孔子の墓の西側に一棟の小屋が在る。そこに子貢盧墓處と彫った碑が建てゝある。孔子の死後弟子達は一般に三年の喪に服したが、獨り子貢だけは六年の間墓側の盧に留まったと傳へられてゐるが、これがその古蹟である。孔子の墓の四圍にある樹木は、各地方から集まった弟子が、各々その古郷から種々の木を持寄って植ゑたのであり、これがため異種珍種が多い。

〔孔子廟〕
 孔林から南へ曲埠城の北門まで一直線の道路が在り、道の左右には老柏を主とする並木が在る。その間には萬古長春坊及び碑亭の二つの建物と文津橋と云ふ橋が在る。それから間も無く北門に達する。
 孔子廟は西門の内にあるが、正式の參詣道は南門からである。併しこれは帝王の御成門で、普通の參詣者はその他の門から入ることになってゐたが、民國革命後自由になった。南門以外には數町の柏の並木道がある。南門の構造は頗る壯觀なもので、額には萬仞宮墻と題してある。孔子廟には多くの入り口が在ってその入り口はどれも宏壯な石造りの坊が建ってゐる。普通は東の毓粋門、西の觀德門から境内に進む。この東西の門を貫く通路の左右に碑亭が列んでゐる。碑亭と云ふのは石碑を保護する建物で、こゝの碑亭は大抵二階造りの樓門のような壯嚴なもので、現在まで殘ってゐるのが十三棟あり、金、元、淸の帝王の御製を刻んだ大石碑がその中に立てゝある。一つの石碑で數十萬兩の大金が掛かったものもあるので、その壯觀は天下に比類が少ないとされてゐる。南に高く聳えてゐるのが奎門閣と呼ばれ、三階造りの高さ七丈四尺、横は九丈四尺の大建築である。庭前に明朝帝王御製の四つの大きな石碑が立てゝある。その南が同文門で、内には漢魏六朝の貴重な碑石が蒐集保存されてゐる。その中で有名なものは五鳳二年刻石(漢碑の最も古い物)乙瑛碑、謁孔子廟殘碑、孔謙碑、孔君墓碑、禮器碑、孔宙碑、史晨碑、孔彪碑、孔褒碑、熹平殘碑、祝基卿墳壇刻石、上谷府卿墳壇刻石などである。唐宋以下の碑は庭前に林立し、風雨に曝されてゐる。最も貴重な周代の古銅の祭器十餘點は廟の奥殿に保管されてある。
 碑亭のところから北に進めば大成門が聳えて圍る。これを潜れば左側に孔子の孔子の手植ゑと傳へられる檜がある。この木は幾度も火災に罹ったり枯れたりしたが、舊根から芽が出て今日まで續いてゐると云はれる。こんな譯で現存の木は、百八十餘年を經たに過ぎないとのことである。更に進めば華麗な杏壇と云ふ建物が在る。孔子が弟子を教へた遺跡を想像して造ったものである。こゝを過ぎて十數級登れば正殿卽ち大成殿前の露臺に達する。
 大成殿は高さ七丈八尺、間口は十三丈五尺、奥行八丈四尺、黄の瑠璃瓦葺の大殿堂で、大簷の下には雍正帝御筆の大額があり、前廊の周圍約一丈の石柱十本には悉く蟠龍を刻み、その刀技は實に雄渾にして精妙を極めてゐる。また左右及び後簷には百花を鐫った石柱を列ね石欄を繞らしてある。我が日光の廟が輪奐の精巧緻密を以て知らるゝに對し、この孔子廟は結構の雄大宏壯を以て誇ると云ふような對照である。この大成殿の名は宋の徽宗帝が命名したものであると傳へられる。
 大成殿内には正位に高さ一丈餘の孔子の像を安置し東側に顔子、子思、西側に曾子、孟子の四聖を配祀し、孔子像の前の碑に「至聖先師孔子神位」と記し、上には康熙帝の」「萬世師表」乾隆帝の「斯文在茲」と「時中立極」と題する三つの大きな額が掲げてある。また左右の兩廡には歷朝の先賢百三十餘人の神碑が祀ってある。大成殿の後方には寐殿があって孔子夫人を祀り、その奥の聖蹟殿には孔子の一代記を畫いた刻石が陳列されてゐる。大成殿の東承聖門を出れば詩聖堂と云ふのがあり、孔子の舊邸の跡だと云ひ傳へられてゐる。詩聖堂の裏に孔子舊邸の井戸が在り、その傍に舊邸の壁が殘ってゐるが、これを魯壁と呼び、秦の始皇帝が天下に令して悉く書物を焚かせたとき、この壁に若干の書物を塗り籠めて保存したのを、漢代になって發見したと云ふ古蹟である。
 孔子廟の東隣りに孔子の子孫の邸宅が在る。これを「衍聖公府」と云ってゐる。宋の仁宗の至和二年に孔子の後裔孔聖祐を衍聖公に封じ、これを世襲とした。當主は七十七代(或は七十四代とも云うふ)の孔德成氏である。府と云ふのは蒙古の何々王府と云ふのと同様で、邸宅の意味である。曲埠城内には多數の孔子の後裔と偁せられる者が住んでゐて、分家として聖衍公の統轄下に在る。

〔顔子廟〕
 孔子廟の東北に顔淵を祀る顔子廟がある。勿論孔子廟とは比較にならない小規模のものであるが、併し相當立派な建築である。顔淵は乞食のような貧乏生活をしながら樂んで孔子の道を聽き、德を磨くことに精進した人で、論語に「一箪食、一瓢飲、枉陋巻人不堪其憂回也不改其樂賢哉回也」とあるように、粗食し小屋に住み普通の人だとやり切れないところを、彼は道を聽くのが樂しくて、生活難などを問題にしない賢者であると、孔子に賞められた人である。廟内には有名な文人蘇軾の銘碑などがある。また廟の王殿の東に虎皮松と云ふ白松があるが、周代のものと傳へられ、四人で抱くほどの大木である。この白松は皮が白く虎の斑に似て、支那特有の珍種らしい。

〔曲埠縣城〕
 曲埠は孔子時代には魯の國の都であったから、魯城とも云はれる。尤も昔の魯の都は今の縣城の少し西にあったのを、宋の眞宗皇帝の時に今の處に城を移し、明の武宗皇帝の正德八年城壁を修築した。城壁の周圍は約三十町で高さ二丈、五つの門が在って正門を迎聖門、と云ひ東南が崇信門、東が   東禮門、西が宗魯門、北が延恩門となってゐる。城内の人口を土地の者は七千と偁するも、實際は五千位のものとしか思はれない。縣城の東南一里餘のところに、尼山(ニイ・シャン)と云ふ山があり、こゝが孔子の生まれた處と云ひ傳へられてゐる。

附記
 孔子廟、曲埠驛より津浦線を南下し、二十三哩約五十分で鄒縣驛に着く。鄒縣城外には孟子廟があり、孟母斷機の處、子思中庸を作る處などの古蹟が、廟の附近に在り、。廟の隣に孟子の子孫である世襲博士が住んでゐる。

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