支那事変戦跡の栞(陸軍恤兵部)

河北省略圖


北支大観

 北支と言へば一般的には河北、山東、山西、綏遠、察哈爾の五省をいふ場合が多い。而して今日の新しい政治区劃からいふと北京の中華民國臨時政府下の區域と蒙彊聯盟政府治下の區域といふことになる。蒙彊地區は、綏遠、察哈爾の蒙地、察南晋北兩自治政府下の察哈爾南部並びに山西北部の一帶である。その他の地區が臨時政府治下の地方といふわけだ。
 この兩地域は、萬里の頂上を中心に、東洋歴史の起點をなし、支那天朝の興亡はこヽ、ことに北京を中心におこなはれて来た。而して今事變の發火點も亦こヽにあった。大體北支ことに河北省は滿洲との関聯深く、滿洲国成立後は北支の特殊性で呼ばれる如く、特別な國際地位を持つに至ったのである。河北省は萬里の長城を隔てヽ滿洲に接し滿洲事變後は滿洲攪亂の巣窟となった。これがため一九三三年には滿洲の安定のため、日滿協定書によりその國防の責に任ずる日本軍は長城を越え河北に攻め入った。破竹の勢ひで京津の地にせまり、北京の北方わづか三里の地點にまで進撃したのであるが、支那側が停戦を申し入れたので、今後長城を越えて反滿抗日をなさざることを約して軍を滿洲國内に収めたのである。搪沽停戦協定といふのはこのときの協定である。これによって萬里の長城に沿ひ、塘沽の北方から北京の北西方へかける一線以内に支那兵の進駐を許さず、非武装地帶となした。これは同時に滿洲にとってはその防衞帶であり、支那側と日滿側の双方の緩とした。これは更に滿洲事変變後の日滿支三國關係を整調し、その親善關係を生むべき地帶としての意義をもったのであった。しかるに支那側の反滿抗日やまず、つひに一九三五年五月に至り、梅津、何應欽協定となり、國民政府勢力は河北省から退場してしまった。かくて同地方住民は久しく彼らを壓迫してゐた國民政府勢力の壓力が去ったので、彼ら本來の叫びをあげ、「河北人の河北」「北支自治」の大運動を展開するに至った。こヽに蔣介石は事態の急迫を恐れ、日本とも比較的よい關係にあった宋哲元勢力を河北に持って來て、日本は滿洲と國民政府の摩擦を防ぐ方法で、河北人の獨立自治運動を防止せんとした。従って宋哲元勢力は日滿との親善、河北人の要望に當たることにその出場の意義があったわけである。然るに彼らの態度は極めて曖昧であったため、搪沽停戦協定地帶の住民はしびれを切らし、一九三五年殷汝耕を中心に所謂冀東防共自治政府が成立したのである。それは長城線に沿う河北東北部の非武装地帶内に出來たもので、日滿と提携し、防共の一勢力として、北支の安定の第一聲足らんとしたのである。
 この情勢に驚いた宋哲元は一九三六年初め冀東をのぞく河北、察哈爾の兩省を支配地とする冀察政權を樹立した。これは宋哲元勢力の立ってゐた立場からして決然的に日滿親善防共を旗印とするものであったわけである。これにより先一九三五年秋察哈爾省でも反滿抗日氣動が滿洲國を攪乱してゐたため日本軍の反氣起こり、土肥原、奏德純協定となり、察北六縣が非武装地帶
と同様の意義と内容を持たしめられてゐたのである。
 これらのことから、河北察哈爾の兩省は滿洲の外郭として、満支の緩衝地帶であり、親日滿紐帶となったわけであった。又同地方の経済關係は滿洲と深く、その交通關係も亦切実であったのである。然るに國民政府は日本との數度の約束を無視し、北支の特殊性を蹂躙して河北、察哈爾を再び反日滿の策源地となし、冀察政權を抗日第一線の政權と化し、終に蘆溝橋における支那兵の我が軍不法攻撃事件が起こり、そして同事件の結果國府は一切を失ひ、事件發生地を中心に聯日防共の新政權が生まれ、支那更生の一歩を踏み出したのである。
  新政權支配下の河北はかくの如く歴史的に日滿との関係深き地帶であり、東洋史の起點であって、支那文化の源泉地帶であり、漠々たる大平原で、それは山東北部、山西の一部、河南につらなってゐる。これらの地帶には永定河、白河の流れ、溧河黄河の下流等を始め大小の流れがあるが、南船北馬の言葉で語られる如く、中南部支那と違って水流、沼澤は少なゐ。河北の北西部、山西省の一帶は重疊たる山地で、山東東部南部には小丘陵が點在する。交通は大小の水流と、古來から江南の米を北京に運ぶ道とされて來た大運河等によって來たが、鐵道開通以來は、都北京の付近とて北寧、京綏、京漢、津浦、膠濟、正太、同蒲の諸鐵道があり、かなり早くより鐵道交通開け、近年は自動車交通も盛んである。歴史と傳説の地で、清朝三百年の遺跡を中心に名勝舊跡は至るところにある。
 蒙彊地區は察哈爾、綏遠の砂漠地帶を中心に、山西北部、察南の高原地帶である。この砂漠地帶には久しく蒙古人の蒙古の叫びが起こってゐた。満州國成立によって滿洲内蒙古人二百萬が興西省の新設によって滿人壓迫下から解放された。この事實が西方内蒙古の蒙人を刺激し、彼等は一九三一年内蒙古の高度自治を要望して、國民政府の壓迫政治下から逃れんとした。これはやがて一九三三年の百靈廟自治政府の成立となったが、國民政府の蒙古自治壓迫はあらゆる角度から行はれ、ことに河北方面の特殊化を破る戦術として河北省包圍政策の一端として内蒙古を重視し、壓迫は一層甚だしくなった。國府は蒙古自治の百靈廟の自治政府を内部的に切り崩さんとするとともに綏遠南方西のオルドスの砂漠の中に綏境蒙政會を作ったりした。こヽで内蒙古の分裂が起こり、百靈廟自治政府の強力な支持者德王等東蒙古派は度重なる國府並びに溥儀軍に抗して立ち、終に一九三六年末には駿東事件の發生を見た。國府の防壓に抗する東蒙古軍の蹶起であった。蒙古人の蒙地支配の意欲は國府の暴壓に抗して烈々と燃え上がっってゐたのである。今次の事變發生するや東蒙古軍は、我が軍に呼應蒙地奪還に立った。疾風の如く、彼等は砂漠の吹雪をついて西進し、一九三七年十月にはかつての国府勢力最前線據点たりし駿遠城に蒙古聯盟自治政府を作った。これはやがて蒙古人蒙古主義を擴大して滿洲の例にならひ、五族協和を建てまへとし、その隣接地方で同じ聯日防共をめざす晋北、察南の兩政権と合體して蒙彊連盟を作ったのである。この一帶は最も聯日防共主義が徹底しており、且つソ連のコミンテルンルートの目的地點たりしだけに赤化への反撃意識強く、且つ外蒙西北支那との関係からして、満州、北支、日本にとっては防共の突端をなすものである。この意味から極東安定の重要突端なのである。

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