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戰蹟の栞(32)

濟寧、鄒縣以南の激戰

 こゝでもう一度津浦沿線の戰線に戻って、濟寧鄒縣以南の激戰を偲ぶことにしよう。濟寧は津浦線滋陽より分岐した支線の終點で、大運河の沿岸に在る交通經済政治上の要衝、我が沼田部隊によって一月七日以來、濟寧攻撃を準備中であったが、桑田騎兵部隊と協力して同月十一日午後二時半主力を以て濟寧西方外城の線に展開して、同城を攻撃した。同地の敵は最初第二十九師の一旅であったが、逐次兵力を增加し砲兵の一部も同地南方に陣地を布いて、これに協力した。十一日午後二時十分第一線は濟寧城を占據し、午後三時城内を占領、直ちに敗走する敵に對し猛追劇に移ったのである。それから後、越えて二月十四日、三個師の敵が包圍攻撃し來ったが我が濟寧守備隊はこれと激戰を交へ撃退した。

 鄒縣は、滋陽東方を迂回した福榮部隊の一部が一月五日午後二時半占領すれば、越えて二月十四日同地南方兩下店に於ては、中井部隊が四川軍百廿五師と遭遇して、鎧袖一觸、これを蹴散らすなど、皇軍の行くところ敵無しの槪があった。

界河附近の戰鬪

 界河の地は山東省南段の要地として四川省軍第百廿七、第百廿二師の第一線部隊約五千が占據してゐたが、我が福榮部隊の一部並に赤柴部隊が挟撃體形で猛撃を浴せ、これに殲滅的打撃を與へ、三月十四日午後五時半界河を占領した。敵の遺棄死體約千五百を數へた。
 界河を屠った我が津浦線南下部隊は、三月十五日拂曉兵力を集結した後、滕縣東方地區に進出し、同十七日より赤柴部隊の一部を以て、滕縣を攻撃し城内を掃蕩した。主力部隊は滕縣を迂回して南方に向ひ、追撃を續行し同日午後五時長驅して滕縣南方八里の臨城を占領したのである。

臨城及び韓莊の戰鬪

 臨城は山東省に於ける最後の抵抗線でもあり、徐州戰の敵第一線とも云はれ、山東省南部津浦線上の軍事的要地で、嶧縣の大炭田區に近く、臨棗鐡道の分岐點である。臨城は四川軍二個師の有力部隊が據ってゐたが、三月十七日滕縣より八里の行程を一路南下した我が軍は、臨城を進撃して、同日午後五時城内を占領した。敵は多數を恃み頑強に抵抗したが、我が猛攻で敵を制壓し、敵は雪崩を打って南へ潰走した。敵の遺棄死體七千餘を算した。

韓莊

 韓莊も山東省南端に在る軍事的要地である。そして山東省最後の抵抗線でもある。我が南下部隊は、三月十九日午後より猛攻を開始し、遮二無二これを占領した。鄒縣より軍を進めること百五十餘粁、この廣地域を僅か六日で席捲したのである。運河を隔てて曨海線徐州は僅々十里の近くに在る。敵は運河及びその南方の小流の線に大軍を集結してゐたが、韓莊の陥落に大動搖を來し、徐州大會戰の前哨戰に我が軍のため早くも出鼻を挫かれた體である。しかも、敵は頽勢を挽回せんと同月廿五日夜半第百十師を以て大擧夜襲して來たが、我が軍は敢然これを撃退した。
 次は、愈々徐州大會戰が展開されるのであるが、徐州は江蘇省、こゝでは徐州會戰の輪劃と、その近くに在る臺兒莊の戰鬪を述べて山東省に於ける戰鬪記を終ることゝする。

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