戦跡の栞つづき

北寧鐵路(イ・ニン・テイ・エルウ)

 日本から北支へゆく時、陸路をえらぶとまづ第一に奉天から北寧鐵路の厄介にならねばならぬ。北寧鐵路はもと京奉鐵路とゐった。北京ー奉天間八四七キロの廣軌鐵道で、一九〇七年に全線が開通した。この鐵道は、實に歐亞交通の中樞を占めるもので、支那から滿洲へ、それからシベリア鐵道でヨオロッパへゆく時も、みな一應はこの鐵道の御厄介にならねばならなゐ。ことに大正元年に、日本の各重要驛との間に旅客聯絡輸送を開始してからは、この線は名實ともに東亞交通の大動脈線としての機能を有してゐた。ところが、滿洲事變が起こってこの線の奉天ー山海關の部分は滿洲國に歸屬してしまったので支那側は旋毛を曲げて、もう連帶運輸も何もやらぬ、郵便物も受けとらぬ、と無茶なことをゐひだした。そして一時この北寧線は奉天ー山海關の間を奉山線とよび、二つにわかれてべつべつの運行をしてゐたが、それではとても不便でたまらなゐので、昭和九年七月一日「滿支通車協定」とゐふのが締結された。そこで奉天から北京までの直通列車は再び運行されることになったのであるが、現在は支那事變により、この間の運行はますます圓滑にゐくやうになった。この北寧線で、先づ北支那への第一歩を踏み出し續いて各地の鐵路を中心として、戦蹟及び河北省を語ることにする。

山海關(シャン・ハイ・コワン)

こヽは滿洲と支那の境界を劃する國境都市で、山海關の街は支那領である。萬里の長城が、こゝにその雄姿を起こしてゐることは有名である。山海關とはよくゐったもので、前に渤海の蒼波を控え、後ろに峨々たる山巓が聳え、まさにどこからみても水陸の要害たるに耻ぢなゐ。これぞ「天下第一關」とゐはれ「燕東の天嶮」(燕は北京の古名)と謳われた由ゑん。この天険に起る萬里の長城は、山海關の起點におゐては城壁の高さが三十餘尺、東門、西門、南門があり、城門の樓上に有名な蕭顯が書ゐたと伝へられる
「天下第一關」の扁額がかゝってゐる。この扁額の一字の大きさは優に一坪あまりある。拳匪の亂(明治卅一年の義和團事件)以来、各國の守備兵がこゝに駐屯するやうになった。
〔史蹟に富む山海關〕
 滿洲事變の熱河聖戰の折には、南門の城壁に梯子をかけ、單身何柱國軍にのりこもうとしたわが山海關守備隊の兒玉大尉、及び南門上に斬りこみ、目にあまる敵兵と格闘して果てた吉田大尉の兩勇士の壮烈極まる戰蹟でゝもある。
 山海關は、滿支の境界にあるとゐふ地勢から、古來幾度が歴史的な政權爭覇の中心となって來た。なかでも有名なのは直隷派華やかなりしころ、奉天の張作霖(チャン・ツオリン)と覇を爭った奉直戰である。奉直戰によって張作霖は關内、つまり山海關の内なる北京に入ろうとゐふ野望をもやし、第二次奉直戰の際、時の直隷軍の大将呉佩孚(ウー・ペイフ)とこゝに對戰した。このとき呉佩孚に強制されて熱河(ロウ・ホウ)地方に兵を進めてゐた馮玉祥(フオン・ユイシャン)の國民軍は、突然、奉天軍と妥協をし、軍を返して北京に入り、馮玉祥は時の大総統曹錕(ツアオ・クウン)を軟禁してしまった。このことを山海關にあって聞ゐた呉佩孚は大ゐに驚き、かつ憤り、直ちに馮を討つべく北京に回ったがつひに果たさなかった。さうゐふ風に、山海關は近代の支那軍閥爭覇の繪巻物のうへにも、重要なる役割を占め、かずかずの秘話をもってゐる。
〔楡關八景〕
 山海關の街は、家の屋根が車窓のそれのやうに、一様にカマボコ型をしてゐるのが珍しゐ。人口三萬、日本人は約百八十人。こゝは一名「楡關」ともゐひ、付近には棲霞寺、玄陽洞の石佛寺など、ゐはゆる楡關八景の勝地が海抜千餘尺の仙境を形づくり、驛から東へ三マイルばかりの海岸は、これまた渤海に面した絶好の海水浴場である。一マイル半にわたる海水浴場は柳楊、青松、白砂と相映じ、海水深く澄んで波も靜かである。この近くの石河(シイ・ホオ)は、支那料理に出てくる香魚を産することで知られてゐるがそれにしてはあまり香んばしい河でもなゐ。

秦皇島(チン・ホソン・タアオ)

 こゝは山海關から十七キロの地點にあって、昔は名もなゐ一寒村に過ぎなかったが、渤海唯一の不凍港である處から清朝はこゝを開港場とした。千九百年北清事變の際、列國はこゝから兵を上陸させるために棧橋をつくり、のちに開灤鑛務局(英國人經営)が開灤炭坑から掘りだす石炭をはこぶために大棧橋(長さ一八六〇尺、幅六〇尺)をつくった。開欒炭坑の関係でイギリスの勢力はこゝにおゐては絶對的で、町に日本人の居留を許さなゐ。海岸へ行く道路の西に耀華公司が大きゐ煙突から煙を吐ゐてゐる。これは開欒炭坑の傍系會社で、支那における最も有力な硝子製造會社である。こゝから海岸一帶にかけては兵營地帶でフランス、イギリス及び日本の兵營がある。秦皇島港の埠頭は外側がA棧橋、内側がB棧橋で、A棧橋には三、四千トン級の汽船五隻を、B棧橋には三千トン級の汽船二隻を同時につけることが出来る。不凍港とゐっても厚さ一フィートから一フィート五ぐらゐの結氷はめづらしくなゐ。
 ここは地名によってもわかるやうに、昔は渤海灣の離れ小島であったのが、沖積層の發達と、砂丘の移動によって本土と陸つゞきとなったものとみるべきであらう。秦皇島につゞゐて外国人の間に知られている北戴河がある。

北戴河(ペイ・タイ・ホオ)

 こゝは異國情緒濃ゐところである。北戴河の驛から海岸へ七マイルばかりの支線に乗って海岸站へ出ると、こゝは有名な夏の避暑地にして海水浴場である。背後には聯峰山の峯が聳え、明媚な風光をバックとして外國人たちの別荘が建ちならび、旅館、ホテル、クラブハウスなどの瀟洒な建物が、まるで、ヨオロッパの避暑地の縮図版とゐった趣でならんでゐる。北支那のニイスである。張学良もかってはこゝに別荘をもって第何夫人かを引きつれて悦楽に耽ったものである。

昌黎(チャン・リ)

 山海關から六〇キロ。縣城は驛の北方一マイルの觀音山の南麓にある。人口二萬五千。こゝの名物にすばらしゐものがある。棗形をした大きな白葡萄だ。この白葡萄は驛でも賣ってゐるから、買って喰べることも出来る。その豪華な味覺は文字どほり旅情を潤ほすに足るものであろう。昌黎城は十三層の古塔、城壁に門樓があって古雅な町である。うべなりこの地、唐宋八大家の一人、韓退之の故郷である。韓退之は生まれ故郷の名をとって號を昌黎とゐった。七歳にしてよく書をよんだとゐふ鬼才、長じては自ら儒者をもって任じ、「仁義」を明らかにして、宰相となっておのれの志を述べんとしたが不遇に終わった。しかしながら、その文章はよく一世を動かし、文豪として歴代文人の太宗となった。

灤洲(ルアン・チオウ)

 山海關から九八キロ、灤河(ルアン・ホオ)の右岸にある。この灤河とゐふのは昔から貢物の一とされてゐた「灤河の紅鯉」で知られてゐる河。水源を内蒙に發し、灤平から承德、沙富橋、太平營、遷安、永平を經、灤洲から渤海にそゝゐでゐる。この間二百三十哩は昔は水運の便がよく、船が上航するときは雜貨や糧米をはこび、下航の際には上流の都市から木材、石材、果實などを運んで來たものださうだが、ゐまは赤く濁ってところゞに淺瀨が出來て、舟運も昔ほど便利ではなくなったやうである。
 この灤洲の城西から唐山(タン・シャン)までの間はゐはゆる開灤炭の炭田がずっとつゞゐてゐる。何しろこの炭田は無煙炭で出炭量は年三百七十萬トン、一日一萬トン以上を採炭するとゐふ支那第一の炭坑地帶である。つぎの開平、唐山の説明を了ってから開灤炭坑の全貌を展望することにしよう。

開平(カイ・ピン)

 忽必烈が始めて帝位に即ゐた元の上都であり、同時に元朝最後の順帝が蒙古へ逃げこんだとゐふ念のゐった舊蹟地、こゝも炭坑地帶であることはもちろんで、ゐまでもこのへん一帶から出る石炭は「開平炭」の名でよばれてゐる。

唐山(タン・シャン)

 人口十二萬、河北省では北京、天津、保定につゐでの大都會である。附近の勝地に驛の北方二マイルの鳳凰山、その山上に興國寺がある。開灤鑛務總局の所在地で、町の年齡は炭坑と同じく僅々四十年位のものであるが、炭坑景氣で商業が發達し、支那人などは唐山の名を呼ばず、「小天津」とゐってゐるほどである。
〔開灤炭坑〕
 ここで、開灤炭坑の説明にかゝらう。開灤炭坑とゐっても廣く、ゐろゐろの炭坑が集まってゐる。大まかにゐふとこの炭坑を總活する開灤鑛務總局とゐふのは開平鑛務公司と灤洲鑛務公司を合併したものだ。
 開平炭坑は唐山にあり、明時代にはもう發見されてゐたとゐふ古ゐヤマである。淸末になって汽船會社の招商局が設置されるや、焚料の石炭の必要が起こって來た。そこで李鴻章が時の招商局總裁唐廷樞に命じて光緒四年に資本金二十萬兩で設立させたのが開灤鑛務局である。義和團事件が起こると、各國は爭ってこの炭坑を狙ひはじめたので、支那側はあはてゝ英國資本をゐれてこれを逃れやうとし、一九〇〇年に百萬ポンドで英淸合併會社とした。ところがこの鑛區につゐて支那人側と紛爭が起り、支那側は官民から株を募集し、資本金五百萬兩でお隣りの灤洲一帯の鑛區を含む灤洲鑛務公司を設立した。かうして双方猛烈な競爭を始めたが、結局共倒れになりさうになったので、民國元年に兩公司が合同して現在の開灤鑛務局が出來上がり、資本金二百萬ポンド、社債百四十萬ポンド、計三百四十萬ポンドをもって全鑛區を經営することになった。が資本金は殆んど英國が出してゐるので、これは北支における英國の重要な意義を持つ利權となって來たのである。
 開灤鑛務總局に屬する炭坑は次の六坑で、なかでも唐山炭坑は炭坑全體の出炭量の三分の一を占め、付屬工場として鐵工場、木材工場、煉瓦工場の設備があり、傍系事業としては唐山セメント會社を經營してゐる。▷唐山炭坑▷西山炭坑▷馬家溝炭坑▷趙各荘炭坑▷林西炭坑▷唐家荘炭坑
 開灤鑛務局は英國の巧妙な對支術策(政策にあらず)によって生まれたゞけに支那人の反感も大きく、しばゝ利權回収熱の的となり、激烈なストライキ騒ぎが頻發し、支那事變の最中にもストライキがあってわが出先軍當局が調停に當ったことはよく人の知るところである。

盧臺(ルウ・タイ)

 このあたりから車窓の左手には、珍しい鹽田の景觀が入って來る。こゝから搪沽(タン・ク)までは見わたす限り灰色の泥の鹽田がつヾゐてゐる。さながらに鹽の一大平原とゐった趣である。この平原のなかの木立にもたとふべきものに風車がある。ちやうど船の帆型のものが八つばかり、一本の柱を中軸として廻轉してゐる。これは何のためかとゐふと、渤海灣の低ゐ海水を鹽田の溝に汲みあげる支那式の製鹽に必要な装置なのである。
風車はキイキイと風に鳴って、見る限り何物もない茫漠たる鹽田風景に詩味を點じてゐる。

塘沽(タン・ク)

 この地は八月の末同地守備隊によって占據された。こゝは白河(パイ・ホウ)の河口である。こゝから天津まで三十七哩。
 塘沽の市街はかつて團匪事變の際兵火の惨害を蒙ったが、元來この地は水陸の要所に當るので、一九〇二年北淸事變の平和議定書に基き、外國駐屯軍營所が設置されたのを始めとして、爾来漸く面目を改めて、漸次發展しつゝある。こゝから天津方面に行く人は、陸路を選ぶもよし、(日本郵船の一等船客で天津行の切符所持者は、別に費用を要せずに、本船發行の指定切符で汽車に乗ることが出來る)又白河の風光を賞しながら船で溯行するのも面白からう。白河が出たから,この河の風景を頭にゐれるため林芙美子女史の『白河の旅愁』の一項を借りて來よう。
〔白河〕
 『その日は澄みきった、ゐゐ天気だった。靑ゐ空と、黄色ゐ河、陣地も黄色、河の沿岸にある部落の家家も、燕巣のやうに泥造り、堤に沿って大木のやうなひまはりの花が金色に咲ゐてゐるきり、行けども行けども果てしのなゐ白河の流れを、私は船窓から眺めながら、何だか發狂してしまひたゐような空漠なものを感じた。船がすさまじゐ波を立てゝ通りすぎると、大きな後の波が、もろい堤の土を嚙みとるやうに崩してゐる。それを眺めてゐる岸の子供たちは何時までも船を追って走ってゐる。』
 この、白河は、北支那に於て、海岸船舶が航行出来る唯一の河であって、源を長城の獨石口に發し、通州、天津を經て大沽口で渤海に入る全長八十哩の河で、俗に、海河と呼ばれてゐる三岔ー大沽間の三十五哩が白河航運の主要部分である。白河の名は、百から一引いた即ち九十九折の河流を表したものださうで、河水は黄土のため、コーヒーミルクのやうに黄濁してゐる。
 河幅も河口がやく三百米、天津附近で二百米に足りなゐので、滿潮を利用して天津迄まで遡行し得る船舶も一千数百噸のものに限られ、それ以上の船舶は河口の塘沽や、大沽バーに繫留して、北寧線又は小蒸気汽船に依って天津と連絡するとゐふ不便がある。しかも近來、黄土による河底の泥塞が甚しく、天津港の死活問題として、これが浚渫等が大ゐに論議されてゐる。なほ、白河に合流する河北五大河の中、南運河は、隋の煬帝が建設した白河と長河と長江とを連絡する大運河であって、本運河によれば、天津と山東省の濟南とを連絡することも出來、自然これ等の運河によって、北支の物資が天津に集散されることは勿論、北運河によって天津、北京、通州間の連絡も自由である。

大沽(タア・ク)

 大沽は白河口の右岸にある。前記の塘沽と相對してゐて、天津より水路で約三十七浬、海洋方面においては芝罘を距ること一九四浬、約一日の航程である。市街は東沽、西沽の二區に分かれてゐる。人口約七千、大沽港附近の海河に産する魚介は、天津市民の食膳に上がるものが多いゐ。又この地には淸朝末葉における數次も對外事變に際して、外人の心膽を寒からしめたる南北兩砲臺の舊趾がある。とまれ大沽港は、白河の水運と關連して、北支那における貨客の呑吐口である。
 この地は、八月卅日、わが塘沽守備隊の小部隊に攻撃され、敵は多數の屍體を殘して潰走、こゝに北寧線一帶は我が軍の手に歸したのである。愈々北支随一の貿易港天津に入るに先だって、この地に於る、敵軍攻撃の顛末を述べて置くかう。(つづく)


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