戦跡の栞つづき

北寧・京漢兩線の戦略的大観
 今事變の發火点となった盧溝橋は北京より天津・山海関を越えて遠く奉天に至る北寧線と、大陸を縦断する大動脈、即ち北京を發して南に延び保定、石家荘、順德、彰德、新郷を經て大黄河を渡り漢口に達する京漢鐵道の分岐點豐台より約三キロ兩鐵路に挟まれた三角地帶であったヽめ、事件の擴大は必然的にこの二大鐵路を中心に發展すべく運命づけられてゐた。
 硝煙全支を蔽ふに到った、この大事變の導火線は實にこの地點に起きた抗日支那兵の數十發の不法射撃であったのである。後世の史家は昭和十二年七月十一日夜を以って東亜の歴史は一新紀元を畫したとするであらう。事實は正にその通りである。
 しかし盧溝橋事件發生後とゐへども、もし國民政府にして冀察側要人にしてゐち早く抗日の迷夢より醒めたならこうした大事變は起きずに済んだのである。
 なぜなら我が國政府も、軍も、國民も朝野をあげて、東亜の和平を望み堅く不擴大方針を持してゐたからである。
 しかるに支那側は、我が國の實力を誤算、徒らに事態を惡化させ、遂に北寧線郎坊驛と北京廣安門附近に於て闇討ち的な攻撃を我が軍にあへてしたのであった。
 この時を限りに支那大陸に平和は去り、皇軍は遂に立って正義の師は進められたのである。
 戦は先づ北寧沿線に起きた、郎坊の敵兵は一溜りもなく逃亡。二九軍の金城湯池南苑は半日にして潰滅、宋哲元等冀察首脳部は闇にまぎれて北京を脱出、京漢線方面に逃れ去った。
 續ゐて天津も平定、太沽の敵兵も四散、忽ちにして北寧一帶、京津の地は皇軍の占據する處となった。戦は次ゐで京漢沿線に移った。
 敵は保定を主陣地とし、涿州をその前線陣地とし、永定、拒馬、大冊の諸河川に堅固な陣地を築き三十萬の大軍を集結、すきを見て京津地方奪回を策してゐた。
 この形成を察した我が軍は堂々の攻撃陣を布き九月中旬前線に亘って攻撃前進、旬日にして涿州、保定を陥れた。これが世に謂ふ保定、涿州會戦である。
 皇軍は續ゐて進行、敵の京漢線に於ける第二線、正定、石家荘を降し、餘勢をかって順德を粉砕、河北、河南の省境彰河を越え、第三陣地、彰德の寸前でひとまづ兵をおさめた。
 續ゐて昭和十二年暮迫る頃堅陣彰德を陥して、越年黄河北岸の敵掃蕩の作戦を練った。
 時、遂に到って昭和十三年二月十一日、紀元の佳節に當って、我が軍は分進合撃、絶妙なる作戦のもとに、随所に戦火を収め、またヽく間に新鄕、長垣等の要地に日章旗を翻へし黄河北岸一帶の敵を掃蕩、京漢線黄河北段の作戦を終はったのである。(つづく)

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