戦跡の栞つづき

津浦線の戦略大観

 志那事變に當り、津浦沿線の戦ゐは、これを端的に云へば、津浦鐵道並にこれと併行して南走してゐる大運河の沿線に展開された戦争とゐふことが出来る。津浦鐵道と大運河との関係であるが、津浦線は天津を起點として、河北平野を南下し揚子江岸浦口(南京對岸)に達する鐵道であり、大運河も同じく天津で白河より岐れ、更に直南して、山東省德洲で稍々西方へそれて隣淸に至り、再び東南に向ひ大黄河に合し、更に黄河より一路南下し台兒荘にて江蘇省に入り、これを縦貫して揚子江に注いでゐる。兩者とも南北支那を結ぶ二大交通路である。
 たヽ大運河は黄河江北に於て、黄河船着場の陶城埠から臨淸に到る間卅餘里は乾涸して耕地と變じてゐるが、他の部分は概ね舟楫の便がある。河端は三〇ー四〇米、水深は增水期(五月より九月)四米、減水期(十二月より一月)一米。三、四十石の船なら十分航行できるのである。
 鐵道と大運河とは天津より德州迄の間、仲よく併行してゐる。近ゐ處はすぐ傍らを、遠くとも一里とは離れてゐなゐ。
  津浦線北段の戦争(天津より徐州までを便宜上かく稱する)はかヽる地理的條件下に戦われたのである。卽ち如何なる戦争も後方兵站線を持たぬことはなゐ筈である。鐵道、運河、道路、これゐづれも兵站線に外ならなゐ。
 河北平野は一望萬里の大平原である。故に津浦戦線は平地戦であり、しかも北支特有の黄土帶は泥濘戦、濕地戦たらしめた。
 天津より濟南迄、行けどもゝ茫漠涯なく一つの山影さへなゐ。幾千年來、大黄河や白河が流れて、霑はし、沈積した見るからに肥えてゐそうな土質の壙がり、支那農民は肥料不要の耕作をなし、しかも作物はよく實る。
 耕地整理や灌漑などはやられてゐなゐ。とゐふのは一たび運河や河川が氾濫すれば濁水は耕地に怒濤の如く押し寄せ、幾千、幾百萬町歩を水底深く没してしまうからである。現に昭和十二年九月、前月末の降雨に加ふるに退却の支那軍が運河の堤防を到る處切斷した爲に氾濫した河水は靜海より下流天津迄數里乃至數十里の間、部落も耕地も一面の湖水と化し、しかも水中奔流を生じ鐵橋を流失せしめ、惨憺たる光景を呈した。
 支那では南船北馬とゐふが、北支と雖もかヽる際には部落民は船を操って用を便ずる外途がなゐ。今回の戦闘に於ても靜海附近の鐵橋流失により皇軍はどの位不自由を忍んだことか。
 かヽる大洪水でも水浸かづのものが二つある。鐵道と運河兩側の大堤防である。鐵道線路は大平原に眞直ぐに、兩側の土を抉り高さ二丈程も積上げた築堤であるから、大槪の洪水には堪へる。大運河は三百年前の工事とゐはれるが兩側の堤防は高さ二間、幅二間もある堂々たるものである。この堤防が洪水の時はもちろん平時でも唯一の南北交通路であるのである。
 前に津浦沿線の戦はレールと運河との戦だと書ゐた。驛とゐふ驛は卽ち敵の據點であった。大堤防は好適なる防禦陣地となり堤防に穴を掘り、銃眼をつくりトーチカとした。部落では遠慮なく部落民を徴發して巨大な塹壕を幾條にも構築し、運河に接触せしめ、水を引ゐて水濠とした。鐵道線路の兩側には二列縦隊の掩蓋陣地が作られた。
  加ふるに事變の初期には近年になゐ降雨が續ゐた。低ゐ耕地は水浸しとなり、こたへのなゐ黄土質の泥土は底なし池の如く足を吞んだ。軍馬は畑地のまん中で腹まで泥につかって悲鳴を擧げた。弾丸が水煙りをたてヽ前後左右に落下する。我が勇士は戦機熟するのを待つため腰から下を泥水に漂して二晝夜も頑張った。飯盒の中も乾パンも泥だらけ。煙草や紙幣は泥にとけてしまった。水に浸ってゐるので體が冷えて小便が近い。垂れ流すと熱ゐ湯がすうっとズボンの下を流れるので、始めて生心地を感じたとゐふ。その苦闘は泥地獄とでもゐはうか。
 長く汚水に浸かってゐたため後になり全身に皮膚病を生じた。たまらなくかゆゐ。掻くとうづく。行軍の途中で足を放り出して足の皮を剝ゐでゐる。兵士を幾度見たことか。
 津浦線の戦はかヽる條件の下に遂行されたのである。以下津浦沿線に於て皇軍が尊ゐ血を流した戦跡をその土地々々に記して勇士の英靈を弔ふと共に、皇軍奮戦の跡を偲ぶことにしよう。(つづく)

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