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戰蹟の栞(15)

保定方面戰闘略圖(黑→日本軍)

 涿州方面の大追撃戰を行ひゝ、我が軍は、南進又南進して九月廿二日には保定北方二里の地點にある大冊河を盾に抵抗する敵堅陣を空軍の爆撃に援けられつゝ、猛攻して、これを陥れたのである。此の一戰によって滿城を中心とした敵の左翼陣がまづ崩れ出し、敵は續々と保定の西方に退却を始めたのである。これを追ふて、我が左翼部隊、右翼部隊は保定に猛進を續けたのである。次いで南方からも我が軍が詰め寄せ、こゝに全く保定を包圍して、各部隊一齋に攻撃を開始したのである。一方、飛行隊は前日來退却中の敵に對し空襲を行いつゝあったが、城内の敵は頑強な抵抗を續けてゐた。この時、側面より進んだ我が部隊によって、西南地點の京漢線は遮斷されたのである。
 待ちに待った時は來たのだ。保定淸苑城をぐるりと包圍した我が軍は、廿四日拂曉より頑強に最後の抵抗を試みる城内の殘敵に對し、果敢なる攻撃を開始したのである。砲兵の掩護下に外壕を越えて城壁の一角に取り付き、敵の猛射を冒しつゝ高さ十五米突の城壁を攀じ登って、午前九時四十五分遂に突角を占領して感激の日章旗を掲げると、續いて南角を陥れ、こゝに保定城は我が手中に陥ちたのである。同日午後一時半、城内の掃蕩を完了。こゝに奉天大會戰以来の大會戰保定涿州會戰は幕を下したのであった。
 永定河左岸より行動を起こして僅か十一日、その神速振りは全くの驚異であった。保定陥落は確かに豫定よりも早かった。その理由としては、涿州附近に於て支那軍が受けた打撃が餘りにも大であったことゝ、皇軍破竹の進撃に保定迄の間に於て十分體勢を立直すことが出來無かったことゝ、飽く迄頑強な抵抗を続けることによって、自軍に徹底的な打撃を與へられることを恐れた結果、更に後方に退却し後圖を策するを得策也と考へた爲であろう。
 以下、保定會戰直後、保定城外の我が部隊司令部に開かれた保定攻略座談會を抜萃してこゝに掲げて皇軍奮戰の一端を覗ふことにしよう。

保定戰況座談会
 參集した勇士は保定攻略戰に活躍した諸部隊の下士官百廿餘名。司會者は矢崎部隊長。この座談會に列席した勇士は、京漢線の敵大軍を殲滅する爲、中部戰線を南下、永定、拒馬、大冊の三河を渡渉し、九十度の大旋回で敵を撃破して、息を繼ぐ間も無く保定攻略戰に參加し、敵の退路を遮斷して、京漢線往復横斷の、所謂S字型作戰軍として赫々たる武勲を立てた部隊で、その語るところは、概ね三大河の渡河戰である。

 「矢崎部隊長」只今より座談會を始める。まづ永定河、工兵隊よりはじめッ!
 「柳井盛三軍曹」総攻撃に備へ渡渉地點を偵察する爲、十一日午後山中准尉と自分及び森島一等兵は出發致しました。永定河はこの日濁流渦巻、河原は一面の泥沼であった。三名は素っ裸となり河原の楊柳の蔭で水盃を酌み交わした。最後の一滴を各自の猿股にかけ、今度は敵に見つけられぬ様にと猿股をよく泥で捏ね上げてから手足、顔と丹念に泥を擦り付けた。山中准尉を河童の化け物だと云へば、貴様は泥龜ぢゃないかと云ひ合って、三人で大笑ひしました。武器は短刀一口です。他の二人は丸腰だ。用意が出來たので三人の泥河童は腹匍ひで前進河岸に出た。流れに逆らはぬやう斜に高粱の莖で水深を測りつゝ河を渡り敵岸に出た。交通壕を傳って進むと敵の機關銃座の下に出た。支那兵が一人機關銃を握って我が陣地を睨んでゐる。森島一等兵が矢庭に飛びついた、つゞいて自分は例の短刀で一刺、敵兵は殪れた。だがその音で敵兵が駆けつけて來たが、その時、我々は濁流を抜き手を切って泳いでゐた。敵機關銃は盛んに火を吐いて迫ったが、三人は微傷だも負はず見事支那軍の渡河地點を發見、歸還しました。

 「矢崎部隊長」柳井の話は却々よい。外に、

 「湯澤武一上等兵」(星野部隊)十二日午後九時村田少尉殿と自分の兩」名は、また別の渡河地點發見に出かけました。月が雲に隠れるのを待って偵察を行ひました。その時は丸っきり裸で猿股も用ひませんでした。(笑聲起こる)
 「矢崎部隊長」靜に!
(湯澤一等兵話を續ける)
 全身に泥を擦り、少尉殿は荒繩で軍刀を背負ひ、自分は千人針で拳銃を腰に縛り付けました。河を渉り畑の中を約十米程進むと左の方に敵の話聲が聞こえます。少尉殿は刀を抜いてその一人に斬りかかったが、刀の柄に泥が着いてゐるので刀が手から抜け組討ちです。間もなく少尉殿は敵に馬乘りになって刀を拾ひ首を斬ってしまった。ほっとした時約十米先で敵が機關銃を撃ち出したので二人は長居は無用と歸って來ました。

 「藏持上等兵」(松田部隊)戰友一等兵猪瀬猛の戰死の話をします。十二日午後九時自分等十九名は矢張り偵察の爲、渡渉しましたが、河中で敵の齊射を受け、猪瀬は敵岸十米附近で胸部を撃たれ、拳骨位の大きさに肉を獲られたが、善く偵察を果たして歸って來た。戰友十八名は未だ敵彈が激しいので敵岸にへばりついてゐる。ですが、猪瀬は「おれはどうせ駄目だからといって看護を受けず、自分の名を呼び續け、最後に萬歳を三唱し、三回目は唱へる氣力も失せ河原で死にました、終り。(藏持上等兵は泣きながら着席)

 「矢崎部隊長」次は拒馬河の話にする。希望者は起て!

 「宮本達雄上等兵」(石黑部隊)部隊長殿の話をします。十五日午後十時暗夜を冒して石黑部隊は拒馬河畔に達した。我々は永定河戰で副官細貝少佐殿等多数の戰友を失ってゐたので、復仇に血を燃やしてゐたのです。石黑部隊長は河岸に全員の集合を命じ、「斷乎前進せよ」とただ一言、部隊は肅々として河を渡りました。河の中程に達した頃、敵が部隊の渡河を發見して猛烈な十字砲火を浴びせて來た。部隊長はこの時大聲を發した。「細貝の仇を討つぞ、俺に續け」と眞一文字に部隊長が突進した。自分等も遅れじと敵陣に突入した。部隊長はと見れば靑龍刀を握った敵の将校と斬り結んでゐる。忽ち敵の獲物を巻き落とした。斬るかと見れば自分も太刀を投げ出して矢庭に組み付き、遂に敵将校を生け捕りにした。全軍聲を限りに拒馬河右岸に勝鬨を揚げました。

 「矢枝金市上等兵」(酒井部隊)十五日午後一時のことだ。酒井部隊の渡河地點は渡渉絶望。鐵舟を以て此処を渡る以外に途は無かった。歩兵に工兵が協力して、鐵舟を擔いで河に浮かべようと河原に駆け出した。矢崎部隊長はその右第一線河原をこれまた鐵舟を擔いで敵岸目掛けて進んだ。忽ち敵機關銃の掃射に三名はバタバタ倒れた。鐵舟は岸に達しない内に落としてしまった。そこで我々は勇を鼓して更に舁ぎ上げた。十歩程歩むと二名河原を朱に染めた。鐵舟はまた地に落ちた。殘り十五名が舁ぎ上げようとしたが、重くて動かない。詮方無くずらして河原に運んだ。鐵舟が河に半分程入った。大久保定雄上等兵が竿を握って一氣に舟を突き出そうとしたその時、敵機關銃は大久保上等兵に集中され身に十八發を受けて上等兵は絶命、それでも竿を離さず壯烈な戰死を遂げた。續いて同姓の大久保久雄上等兵が鐵舟に飛び乘ったが、忽ち敵彈に胸板を射貫かれ「萬歳」を叫ぶと共に息は絶えた。また仁平上等兵が倒れた。最後の聲を振り絞って「此処は御國」を歌ひ出した。これも敵彈に傷ついた瀕死の酒井上等兵がこれに和した。自分も歌った。生存者たちは皆歌ひました。(此処迄語り來った矢枝上等兵は、感極まって涙に聲は詰まり、物凄い激戰に慣れた勇士等のあちらこちらからすすり泣きが起こる)歌は物凄い銃聲のうち河面に響き渡った。全く悲壯極まりなき軍歌です。歌ひ終わった仁宗上等兵も酒井上等兵も縡切れてゐた。生存者は僅かに五名、其の五名を自分は率ゐて鐵舟を捨てて下流から強硬渡渉して敵陣に斬りこみ、戰友の仇を討ちました。(次いで十數名が交々各部隊の渡河状況を説明した。

「矢崎部隊長」拒馬河はこれ位にして大冊河に移る。

 「稲田章伍長」(成島部隊)自分の隊は総攻撃開始以來三度隊名が變りました。いま成島部隊と言ったのは最初の隊長の名です。成島中尉殿は拒馬河で、次の隊長佐藤少尉殿は大冊河で夫々戰死せられ、十日を出でず三名の隊長に仕へたわけです。廿二日午後二時佐藤部隊長は大冊河々畔に到着した。隊長は靜かに決死の隊員に訓して「今宵こそ成島部隊長の仇が取れるのだ、われに一歩も遅れるな」佐藤部隊長は勇躍河に身を躍らした。決死の隊員が續々夜半の大冊河に飛び込んだ。敵は文字通りの十字砲火を浴びせたが、屈せず佐藤隊の全員は強行に渡渉し、遂に敵岸に着いた。あゝその時だ、一彈は佐藤部隊長の大腿部を貫通ドット倒れた。馳せ寄った渡邊曹長が抱へ起こした時、また一彈が佐藤隊長の咽頭を貫いた。でも佐藤隊長は苦しい息の下から曹長に軍刀を渡してじっと見詰め「お前がこれで指揮せよ」と言ひ殘して死なれた。渡邊曹長は兵を指揮して、阿修羅の如く突撃した。高橋一等兵が萬歳を叫んで仆れた。敵前十五米に迫ったが敵の猛火は益々厳しい爲前進は捗らないので彈雨の裡に壕を掘った。胸までは水だ。戰は翌朝九時まで續けられた。實に七時間餘りで漸く戰ひ終り、隊員に集合を命じて點呼を行った。一、二、三、と答へると番號は十七・・・プツンと切れた。あの勇ましかった渡邊曹長もその時既に無かった。

 「阿久津好一郎伍長」(星野部隊)佐藤部隊危うしとの報に、わが隊は遽か仕立の看護隊となった。隊員は全部裸體、四人が一組となり、一組につき支那の戸を一枚、これは澹架で武器は手榴彈だけ。二、三十米の間隔を置いて各個に前進、敵の敷設地雷を掘り出しつゝ河を渡り佐藤隊の死傷者を収容した。看護隊も大橋上等兵戰死、負傷者八名を出した。(熱心に耳を傾けてゐた矢崎部隊長はこの時、時計を見て)

 「矢崎部隊長」今日は御苦労であった。まだ話したいこともあらうが夜も更けたからこれで打ち切る。今日聞いた話は皆將來の戰闘の資とせねばならぬ。今後も大いに軍務に奮勵せよ、終り。各隊とも兵を集めて歸れ。

 斯くてこの下士官兵の陣中大座談會は前後實に八時間に亙って行はれたのであった。次の激戰は石家莊附近であるが、此処に漸く戰略譚を打ち切って、これほどの苦勞をして陥れた保定とはどんな所かを申し述べ、更にその附近から京漢線石家莊までを語ることゝしよう。

保定(パアオ・ティン)
 舊い都會だ、と言ふ意味は市街の様子が古都の風雅な味を未だに傳へてゐると言ふことである。事実、調べてみたら保定よりも古い邑がこの近所にはあるのだが、歷史の匂ひとニュアンスを持ってゐると言ふ點では此処に及ぶものは無い。
 河北省の殆ど中央部に在り、北京、天津に次ぐ人口廿五萬の大都會で、またの名を淸苑(チン・ユワン)と言ふ。保定は明代の築造にかゝると言ふ周圍四哩、高さ十數米もある煉瓦造りの立派な城壁を有ち、各城門に通じる大街路を基幹とする整然たる街衢くを形成し、東大街、西大街、南門内大街、南關街などは最も繁華なところである。野菜市場などは素晴らしく大きなものであるが、商業が盛んで豪商も多く、地方行政、陸軍、官公署、學校なども澤山ある。中でも保定軍官學校は、蔣介石を始め近代支那の將領、高級軍官を育て上げ、支那軍隊内に隠然たる勢力を持ってゐることで知られてゐるが、此処を巣立った將官達は、或は舊式軍閥として、或は抗日將領として没落し去ったことは、われひと共に感慨に堪へ無いところである。
 保定は、ただに軍官學校の因縁だけで無しに、歷史的に、政略的に色々な軍事的な意味を持ち、それによって今日の繁榮が齎されたのである。卽ちは保定が軍事上の要地となったのは宋時代で、此の時「保塞軍」と言ふものを此処に置いた。そこで初めは「保州」と偁し淸和年間、淸苑郡の名を賜って政治の中心となり、元時代に「保定路」明時代に「保定府」となり、淸朝になって直隷省治下に入って政治及び軍事教育の動かすべからざる中樞となった。直隷派華やかなりし頃は、大總統曹錕の牙城として政客は此処に雲集し、曹錕失脚後も彼は此処に在って密かに天下を覗ってゐたものである。
 城内府署前街にある「蓮花池」は公園としても相當なものである。淸の高宗が南巡の際駐ひつのところで當時の行宮園地の後を公園としたものである。名物の池は城外から河水を引き、園内の樹林の間を還流してまた城外に流れ出るやうな仕掛けになってゐる。盛夏、蓮花開く時は眺めも一層美しく池畔に長生館、濯錦亭、藏經園、六憧亭などが在り、名家の手になる碑碣、題聯が多い。

南關支線
 保定から南關支線と言ふのが出てゐる。保定驛から府城南門外に至る約三哩の支線で、その終點南關驛は淸苑河の支流、俗偁府河の碼頭に在り、府河は下流の子牙河(ツャア・ホオ)に通じて大運河より天津に達するジャンク貨物集散の大切な動脈線である。保定東方地區には藻雜淀、白洋淀、白淀、潦水、三角淀などの湖沼を連ねる一帶の濕地帶で、冬結氷した時は便利であるが、水路による以外は困難である。
〔支那城壁の由来〕
 保定に來て驚くのは城の規模の壯大なことである。支那では大概の街には城壁が在るが、これには理由が有る。簡單に城壁物語を述べて置かう。支那に於て都市に城壁を廻らすと言ふことは非常に古く(紀元前)からのことで、おそらく春秋戰国時代からであったと思はれる。これは勿論匪賊や外國の軍隊を防ぐ爲であって、秦の始皇帝が六國を滅ぼそうとした時、六國側は大小數々の城によってこれを防いだものである。續ひて漢の高祖もまた天下の縣邑に命じて城を築かせ、唐宋もこれに倣ひ、幾度かの戰亂攻防に城は屢壊されたが、次の時代にはまた壊された城は修復されてゐた。しかし、あらゆる州や縣に城があったと言ふ訳でも無い。府や州には大抵あったやうであるが、縣となると城の無いところも可成りあったやうである。縣までが申し合わせたやうに城を持つやうになったのは明と淸の時代であった。城と言っても色々あって、第一城と言ふ字を見ても分かる通り、これは「土」が「成」ったものである。つまり、土で捏ね上げたものである。街を堤防で圍んだのである。よほど大事なところでないと煉瓦磚では作ら無かった。保定の城壁は煉瓦で出来てゐるのだから、この城が余程大事な意味を持っていたと言ふことはこれによっても頷かれるであらう。
 大きな街の城には、幾つかの門が設けられ、多いのは十幾つも門を持ってゐたが、この城門の一種に宋以後に「甕城」と言ふものが出來た。保定の城門などもこの様式に據ったものだと思ふのであるが、これは城門に仕付けらはれた本門の他に、更に半圓形に壘壁を張り出し、それに門を設けた。その壘壁は圓く上が細く造られ、甕または月に似ているので甕城または月城などと呼ばれたのである。さうして門は正面には設けず、稍側面に造られた、一つの壘壁の門と、それと二重になったもひとつの壘壁の門とが喰ひ違ふやうに設計された。これは敵の侵入を防ぐのに都合のいいように工夫した結果であらうと思はれる。

望都(ワン・トウ)
 此の地は戰國時代趙の慶都であったところ。堯母陵、鶏鳴井、帝堯てん、丹朱墓、藥王廟などの昔のお墓の在るところである。

定州(テイン・チオウ)
 この都もキリストが生まれるずっと以前から繁昌してゐた古い町である。つまり、春秋時代は鮮虞國、降って戰國時代に入って中山國の都であり、漢、魏、晉もまた中山國とし、燕の慕容埀が都した時は此処に中山尹を置いた。州城は保定よりも大きく周圍七哩もある。古蹟が多く殘ってゐるが、その中でも漢の中山、淸王墓、陽城墓、韓魏公祠、開元寺などは有名なものである。梨の美味いのも此の近所から出る。
 此の定州が中山國の都であった時代の話。魏の文公が樂羊と言ふ將軍に命じて中山國を討たしめ、先づ定州を攻撃させた。樂羊將軍はその息子を中山國王の所に預けてある、人質だ。中山國王は樂羊が大將になって己れの國を攻撃すると聞いて、大いに怒って樂羊の子を殺し、それを煮て羹にして父の敵將樂王の所へ贈って來た。
 中山國王としては「どうだ、これでも俺の國を攻める勇氣があるか」と言ふデモンストレーションだったのであらう。ところが、樂羊も然る者だ。本營に坐しながら贈られたスープの一杯をすっかり飲み尽くしてしまった。そして中山國を攻めたが、中々思ふやうな勝利が得られ無い。
 魏の子公は、これを聞いてひどく感心した。そして臣の覩師賛に「樂王は偉い、犠牲となった一人息子の肉を喰ってまで余に忠誠を尽くしてくれる」と言った。ところが覩師賛は逆に「いいえ、樂羊は我が子の肉迄喰ふといふ非常漢でござります。この倫常を無視した觀念を發達させたら、誰の肉でも喰ふことでござりませう、まことに危險人物でござります」と奏上した。
 樂羊は征旅三年、やっとこさで定州を陥落させて意氣昂然と凱旋して來た。ところが、この凱旋將軍を迎へて子公の御前で論功行賞の會議が開かれると、子公は一つの篋を樂羊に示した。これを開けてみよ、と言はれて樂羊が開いてみると中には書類がぎっしりと詰まってゐた。しかもそれは皆樂羊を非難した上書ばかりであった。「お前は良く働いてくれた、しかし・・」と子公が言ふと、樂羊は思はず頭を下げて「けふの戰勝は私の功では無く、みんな殿下のお力でございました」と言った。子公は何時まで経っても樂羊を危険人物として心を許さなかった。

新樂(シン・ロウ)
 此処には生々しい戰場譚が殘ってゐる。しかも軍人ならぬ一宣撫班員の壯烈な戰死の物語である。昭和十三年二月九日、戰略記事にある如く、皇軍は疾風の如く京漢線を南下し、此処新樂の驛も我が鐵蹄下に占領されて、部隊はどしどしと前進していって。後に殘ったのが宣撫官小宮山季武君である。
 達者な支那語と在り合わせの藥を良民に與へ、その病氣を癒すといふので、小宮山宣撫官の城内の人氣は大したものであったが、一方、彼の首には三千元といふ莫大な懸賞金が掛かってゐた。といふのは昭和十二年の十二月十一日、七百名ばかりの匪賊がこの縣城に殺到したときのこと、それと氣づいてた小宮山宣撫官は城内の巡警に命じて逸早く城門を閉鎖させたので、敵は一歩も城内に入ることが出來ず空しく引き揚げてしまった。それ以來、敵は小宮山宣撫官にスパイを付けて、機會を覗ってゐたのである。匪賊は勿論、朱徳麾下の共産軍くづれの猛悪な連中で小宮山君を狙ってゐた。
 その夜、つまり二月九日、小宮山宣撫官は城外の宣撫工作に出張中腹を痛めて、夕刻城内の宣撫官事務所へ歸り、夕飯も食べずに炕のうへに横になった。しかし腹痛は愈々酷くなる。夜は段々更けて來た。やがて晝の疲れが出てうとうとと眠りに落ちたーー十一時三十分、犬の遠吠えが激しくなった。城壁の上に六十人ばかりの黑い人影が浮かび上がった。彼等は梯子を用ゐて城壁を乘り越えたのだ。城壁の高さは三丈餘もあって普通では登ることが出來ないのだが、その夜は烈風が砂塵を吹き寄せて、城壁の下に小高い丘を作ったので、彼等はそれを足場に悠々と乘り越えたのである。
 城内に忍び込ませてあったスパイが彼らを導いた。この日、共産軍の殘存匪は曲陽と李類顧村と、京漢線を南北に挟む兩地から示し合せて新樂に流れ込んで來たのだ。南北合して總勢千五百名。その大部分は驛を襲ひ、その別動隊はいま城内の宣撫官事務所を襲はうとしてゐるのである。この時、小宮山宣撫官は床を蹴って跳ね起きた。しかし、その時は宣撫官事務所は匪賊に包圍されてゐた。小宮山君は最早脱れぬものと觀念すると、恩賜の煙草を身に着け重要書類を焼いた。そして群がる匪賊の中へ單身躍り出るとピストルの銃身が焼けるほど撃ちまくった。もう後に彈は一發しかない。この時小宮山君は流暢な支那語で叱咤した。「近づいてみろ!どいつもこいつも撃ち殺してくれるぞゥ!日本人はかうして死ぬんだ”!」闇のなかでキラリとピストルの銃身が小宮山君の咽喉に擬せられた。やがて銃聲がおこった。ーそれが小宮山宣撫官の最期であった。

正定(チョン・ティン)
 城の南には滹沱河が流れ、城の西には恒山が聳えてゐる、と言ふ形勝の地である・。しかも此処は例の戰國時代から秦・漢にかけて戰ひのあったところである。人口二萬、穀類や家畜、綿花の集散地として、いまでも重要な町である。名勝古蹟としては隆興寺が有名であるが、一名大佛寺とも言ひ、その名の示すが如く、高さ七十三尺といふ支那有数數の鐵の大佛がある。


 



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