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それでもわたしは遠征に行きたい

 前の記事を書いてから、4か月がたちました。
「好きなものがたくさんあるみなさん、いかがお過ごしでしょうか。」


 世間は様変わりしたような、そうでもないような。世界を見る目はたくさんあって、何が「変わった」かなんて、わからないなあと思う。地に足をつけて生きる世界では、季節よりも俊敏に、あまりにめまぐるしくなにかが変わっていって、流されているのか、立ち止まっているのかもわからなくなっている気もする。
 たくさんのものを愛するみなさま、こんばんは。みなさまは、どんな風に過ごしているのだろう。

 人と会い始めたり、ごはんも外に足を運ぶようになったり、マスクをつける動作はずいぶん慣れて、「気をつけつつ生きる」ということが、右手左足を出すように身についてきたように思う。
 春頃からは、少しずつ、できることが増えてきたような気がする。


 そんな風に、気をつけながらも回り始めた社会の中で。
 なんだかんだ生きていたはずのわたしは、なぜか今になって、急速に元気を失っています!!!!
(元気を失っているときこそ、エクスクラメーションマーク!!!!!!)


 意外と大丈夫だと思っていた春夏を越え、口を覆うのが息苦しい時期も過ぎ、できることは増えていった、はずのところ。
 最近急に、元気を失い始めたのを感じている。
 つらいことは、分析して理由がわかればちょっとつらくなくなると、経験が言っていますので……今日は少しだけ、日記を書いてみようと思います。


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 早速ですが、再びの問いです。
 好きなものがたくさんあるみなさん、愛してやまないものがあるみなさん、いかがお過ごしでしょうか。

 どう過ごせば、この時期を、乗り越えることができるのだろうか。


 かつての自分なら、この時期を難なく過ごせていたのだろうな、と思う。
 家でダラダラ過ごすのなんて大好きだったし、どちらかと言えば出不精だった。一日家にいなさいと言われても、ひらひらと手を振って返事にして、やりたいことをいくらでもやっていた。

 ところがどうだろうか、この趣味にはまってしまってからというもの、「外に出ない」ことが苦手になってしまった。2日間休みがあれば必ず片方は外に出たいし、なんなら家にいると決めたもう一方の日でも、「近所でもなんでもいいから一歩外に出たい」と思うようになってしまった。

 それも当然なのかもしれない。というのも、一年前は、月に二度、県外へ遠征に出る生活を送っていた。

 往復新幹線で、というわけにもいかず、バタバタとした日程もしばしばだった。往復のバス遠征を、気に入ってしまう程度には繰り返した。
 夜行明けでそのまま旅行に出たこともあったし、二日前に遠征を決めて、仕事終わりに夜行で出発、観劇、そのまま翌日の出勤のために帰ってくる、というスケジュールもあった。台風が来て夜行が次々と欠便になり、夜を明かせなくなりそうになったり、ということもあった。
(夜行を使うと、自然とギリギリ遠征になりがちですよね)

 けれど真面目な話をすると、遠征をするようになってから、心身ともにめちゃくちゃ健康になったのである。
 かつての自分という生き物、常に一人前のごはんが食べきれず、罪悪感を覚えてしまうので、外食が苦手だった。出先で気分が悪くなるのもしょっちゅうで、外出にはいつも恐怖が伴っていた。草食ならぬ霞食、を名乗らねばならないような生き物だった。

 最初のきっかけは、勢いだった。はじめて遠征をして、舞台を観に行った。
 それまではなんとなくでグランドミュージカルに行ったことがあるぐらいで、自分から強く「行きたい」と思ったのは、それがはじめてのことだった。
 最初は冒険のつもりで。それからは、毎回慣れない緊張を抱えながらも、「見たい」に勝てず繰り返していくうち、知らぬ間に健康体になっていた。

 外に出るのが大好きになった。出先で体調を悪くするようなことはほぼ皆無になり、一人前の食事なんて余裕で平らげられるようになった。永遠に増えないと青ざめていた体重も増えた。今は増え過ぎに気をつけたい。


 そして今。前のようにとはいかずとも、外出自体はできるようになって、配信などで好きなものに触れることもできる中。
 完全に自粛をしていた春から夏を元気に乗り切ったはずなのに、なぜか今になって、元気を失い始めている。自分はなんとかやれそうだと思っていたあの気持ち、どこへ行ってしまったのだろう。

 元気がなくなって、なんかつらいなあと思い始めたときは、考える元気があるうちに、原因究明に限る。原因がわかれば、対処法もわかったりして、ちょっとは気が楽になる。


 そこでたどり着いたのが、「遠征ができないこと」だった。


 外に出られないことがつらい。公演が観られないことよりも、「遠征ができない」ということが、とても堪えているのだろうな、と。
 自分でチケットを申し込んで、とれたと喜んで、宿のことを考えて、誰と会えるかを考えて、声をかけて、なにを食べるか、どう行くかを考えて。

「自分で計画する」「自分で自分の楽しい人生をコントロールする」。
 それがどれだけ健康なことか、わかっていたはずなのに。もうただの娯楽じゃない、自分の人生にとっての「バランスをとる」行動だったのだと、こうなってみて思い知った。


 もちろん人生なんて、おいそれとコントロールできるものでもない。ハンドルがついているわけでもなければ、アクセルとブレーキはふにゃふにゃのパンみたいな形をしているのだろう。
 けれどその中で、必死に自分から動こうとすること。自分で決めて、実行すること。それがとても大切なことで、健康的なことで、「生きる」ことなのだろうなあと思った(趣味はいつだって、人生の哲学を連れてやってくる)。


 もうこの時期なら、と望みをもって数ヶ月前にとっていた大事なチケットたちを、自分から手放さなくてはいけないことが続いた。
 やはり社会の中で生きている以上、その場所を気遣わないわけにもいかなくて、「もし万が一があったら」「自分が誰かに」ということを真っ先に思い浮かべてしまう。あのひとの息子は受験生だったなとか、あのひとのうちにはご高齢の方がいたなあとか。
 もちろん、公演は中止になったりしないのが一番。けれど、公演が行われている中で「自分で」やめることを決めなければならないというのが、めちゃくちゃつらい。堪える。

「自分で」決めるということ。
 生きる上で大事なそれが、悲しくもネガティブな方向にも、大きく影響力を持ってしまったのである。


 先日、大好きな作品の大千秋楽公演を、配信で見ていた。
 二桁足を運んだことがあるようなシリーズで、リアルイベントで断念をした数年前ぶりに、一度も現地に足を運ばなかった。
 そのカーテンコール、キャストさんの「明日からも、希望をもって明るく楽しく生きていきましょう!」の言葉に、涙腺が崩壊してしまった。
 明日に希望があると、思っていいのだと。そこで、ああ、自分は思ったより打ちのめされていたんだなあと、はじめて知った。


 同じ気持ちを抱えているひと、苦しんでいるひと、悲しくなっているひと、たくさんいるのだと思う。
 でも、強く生きたいね、と言いたい。いつになるかはわからなくても、未来は絶対なくならないと思いたい。
 悔しくて、めげそうになって、なんとか顔を上げて、なのに叩きのめされることもある。自分よりもっと大変なひとがいる、それに胸を痛めるのは本当だけれど、だからといって、自分自身の痛みが消えるわけじゃない。ほかの楽しみをがんばって見つけ出してみたって、それは穴埋めにすぎなくて、「代わり」なんてどこにもないんだって、よくわかっている。

 そんな中でも、なんとか、ほかならぬ自分のために、「健康」を守っていきたい。元気じゃなくてもいい、元気を出せなくてもいい、それでも笑顔になれるその時のために、今は必死でいいから生きていたい。


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 外に出なくても、できることはある。それでも、わたしは遠征に行きたい。
 今日はどこを見ようかと、わくわくしながらオペラグラスを握り締める経験が欲しい。乗り物の車窓にワクワクして、急ぎ足で駅の雑踏をかき分けて、劇場前に立つ時の、友人と手を取り合う時の、喜びをもう一度。針のてっぺんまで感想を話し合うような夜を、もう一回。
 願って生きていく。明日があるということが、一歩ずつ希望になっていくような生き方を、踏ん張って、願ってもがいていきたいと思う。

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