オイディプス

幼い頃、近くのゲーム屋に当時出始めたばかりのプレステ1があった。近所のこどもが常時2〜3人ぐらいの列をなしてプレステに並ぶのだった。その頃が一番テレビゲームに対する驚きと喜びがあり、特に3d格闘ゲームには魅了された。そのなかでも闘真伝と鉄拳が面白く感じられて、特に鉄拳は三十を超えた今でもなぜだか魅力的だ。

最近はゲームをしなくなったが、youtubeで鉄拳7のPVを見る機会があった。例によって和也(息子)が平八(父)を崖から落とすお決まりのシーンが崖から溶岩に変わっている。懐かしさがこみ上げて来たと同時に何かが理解できた。少し考えたのだが、どうやら私は復讐劇の父子物語が好きだということがわかってきた。

大学のときに宮崎駿の息子、宮崎五郎が制作したアニメの「ゲド戦記」をみた。直前に意地の悪い友人がテルーが龍であることをネタばらしにわざわざ電話してきたこともあって、あまり期待せずに見たが、私は面白いと感じた。このときは同じ高校の友人と見たのだが、もう一人の友人も面白かったという。この映画自体は評価はよろしくなく、それはこの物語の抑揚の無さにあるのかもしれない。

この物語は最初に父親(王)が殺されるのだが、ここを心理学者の河合隼雄は評価していた。私もその通りに感じていた。たぶん一緒に見た友人も同じように感じていたのだろう。この映画の低評価の一つにずっと暗い雰囲気のトーンから、いきなり龍が出てきても昇華されない感覚が一般の人は拭えないのだろう。だが私は世界というのはどちらかというとこういう薄暗いものだと感じていたのかもしれない。

自分の中にある同質だが、それを否定することが難しい感覚(親子の同質性嫌悪)は思春期に爆発するものだが、ジブリというパッケージが邪魔をするだけで、それがなければ、もっと楽しめるものだったのかもしれない。まぁ背負っているものが大きいから仕方がない。

以上のことを簡単に言えばオイディプスの物語が代弁してくれる。そしてオイディプスの物語を私は持って歩いているのかもな、と思うことがたまにある。特に自分の中身を考えれば考えるほどにこの物語に立ち戻る。

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