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アトリエてらす Hokkaido

数年前に群馬から北海道十勝へ縁があって移住。ここに至るまでのストーリーは 簡単にいうと、呼ばれた感が強い。

十勝のファームの社長さんにツレがスカウトされての、本当に急な流れでした。

私はといえば、群馬の川場村という田舎で25年間女将していて、2010年に色々あって(ここ話すと長い。。)離婚。その後、高崎で小さなアトリエを最初は女性3人で運営していました。震災があった年だった。

さかのぼると、私は旅館時代に色々なジャンルのワークショップしたり、ガーデンウエディングなど結構たくさんの方の結婚のプロデュースもしてました。

村の小さな一軒宿だったので、工夫が必要だったこともありますね。

嫁いで3年で義母がクモ膜下出血で他界。何もわからず、手探りな毎日に。

人と同じことは嫌だったので、試行錯誤して、工夫していました。それで少し変わった旅館だと思われたようで、結構いろんな方が来てくれました。カフェも作ったり、和洋を楽しむように工夫したりしました。

愛犬も泊まれる別館は 当時は愛犬ブームもあり、日経新聞に取り上げられたり、話題になりましたね。

そういった企画運営をしていたことはその後私の力になっていきました。

ゲストを楽しませる事が喜びであり、手仕事も好きで、小原流の教授者でもあったりしたので、離婚後に高崎に引っ越してからは お花教えたり、ウエディングプロデュースしたり、写真撮ったり、色々としてました。今のパートナーは旅館時代からの縁。その後、彼は 群馬では有名な「スーパーまるおか」の青果の主任になり、そこのスーパーで扱っていた想いやりファームの生乳(すごい生乳なのです)以前から社長さんのお話会とかアトリエで主催したりしていて、、知り合いでした。

そういった流れからでしょうか、彼に対してファームに来ないか、、というスカウトの流れがありました。北海道へということは、、私も父も、、母も。。という流れが来るわけです。焦りましたね。

それはそれは 大変なことでした。北海道生まれの父は肺気腫やらいろんな病気のデパートのような人で、、母もそんなに活発でもなく、精神的に病を抱えた時期があったこともあり、老齢化社会の問題やら、母と娘の話など、、色々あって(汗)長くなりますよね。。

そんなことで嫁いだ先の群馬へ病だった父と母を東京から呼び寄せていたので、二人を置いて私たちだけ移住、、はありえません。

一緒に頑張って引っ越ししてもらいました。父は北海道きて2年で他界。その後、看病が無くなった母を フラ、バレエやベリーダンスなどに連れ出して、体を動かすように促しつつ、自分も酪農の仕事後、楽しんでいました。

ところが急に介護が重篤になり、みるみる弱って、昨年の5月に天国へ行ってしまいました。ここでの話も色々なことがあったのです。またお話したいことがいっぱい。。

せっかくきた北海道。やったことない仕事しようと、4年近く、慣れない酪農の仕事をしました。

私♡力仕事好きでした♫やっと慣れてきた頃に辞めることになったのは残念でした。去年、母を見送って出社したところで理由あって、二人で、辞めることに決めました。。想定外でした。

気がついたら、夏至に二人して無職。。笑 人生は想定外を楽しめるかどうかも大事ですよね。。そう思いつつの夏至からの日々です。

昨年の7月初旬から納骨のために関東へ車で旅をしながら、車中泊で南下の旅をしました。1ヶ月ほどで帰ってきました。

友人とあったり、途中、地域の地元の人との交流があったり、それはそれは濃い時間でした。このブログで、旅の話もして行こうかな、、って思っています。

そして、いま仕事は探していなくて、仕事を作ろうとしています。

ご飯が食べられて、人に迷惑かけないで、好きなことをして過ごせることを目標に実験中。

ちょっと脱線しますが、去年の冬至のこと、、のんびりして中国ドラマDVDみていて、突然ビデオデッキとか壊れるんだよね。。笑 DVDでドラマにハマってのんびりしてたら、、見られなくなる冬至かな、、ですよ。

夏至と冬至と神様は上から見ておいでです♡

群馬の高崎時代のアトリエは 最終的には女性二人で運営していたんです。名前は 「アトリエてらす」。

無職の時間の中、そんなことをふと思い出したりしてました。群馬では自宅を「月てらす」隣のアトリエを「天てらす」って名付けて、、月明り食堂と言って、食事をみんなで食べてお酒飲んで仲間が沢山いました♫

「てらす」は照らすということで、みんなを照らして、自分も照らして、みんなで楽しく光っていこう♪的な。いい名前だったねえ、、なんて思い出してたら、急に自宅でアトリエてらす開こうってことを思いついたんです。

そう、もう一人の相方marsa*の牧子さんは群馬から神奈川の湘南に引っ越して活動をしていたんです。

アクセサリー作家としてや自然のオブジェづくりで自立している彼女と、同時期にアトリエてらすHokkaidoとshounanと二店舗スタートすることになった。

違う場所でも仲間と時を繋げていこうって盛り上がった。群馬を後にして5年目のこと。

そんな「アトリエてらす」が立ち上がって、、すぐに marsa*が来道して、、我が家で彼女と私の二人展的な活動ができた。

そもそも北海道で酪農4年真面目にやってたから、、ほとんど外に目を向けていないというか、、友達も少ない、、という感じで、少ないゲストと、濃い時間を過ごそうと開き直ってました。オープンしたところ、ご縁で、いろんな方が来てくださって、嬉しい三日間を過ごしました。

それから1ヶ月に三日だけのオープンディを設けて、続けています。

2月は22日(月)23日(火)24日(水)の三日間オープンします。

そして明後日には 環境活動家の谷口たかひさ氏のお話会を「アトリエてらす」でオーガナイズ。ツレが珍しく声を上げて、これもご縁あってのボラ、フォロワー事業。地元の小学校と、隣町の友人のスペースで、開催します。ここのお話もしていきたいです。

てらす事業は 始まって間もないわりにイベント事業も立ち上がっていす。「えいえいおーっ」頑張らねば、、って奮い立ってもいないのに、自然の流れでワクワクしていたら始まっていた、、っていうことが起きてる。実験♫嬉しいなあ。

イベントは カテゴリー分けてお伝えしたいです。

私は幼稚園の時から踊ることが好きで、あまりに好きすぎて、プリマバレリーナになれないなら辞めるしかない、という(笑)ぽっきり折れる時代を経験。。

旅館の女将時代もフラメンコを習い、外にいけないならスタジオを作ればいい、、と古い木造建築の昔のお風呂場をリフォームして、足も踏み鳴らせるアトリエコルボ というスペースをつくった。。

ベニートガルシアというスペイン人男性の先生ともご縁があったので、来ていただいた。お金が有り余っているわけではない。経営が厳しい旅館をなんとかしようという、道楽ではない本気の遊び、、リフォームも結果出来は上々で、古いお風呂場の天井の張もそのまま生かしたスペースは さまざまなワークショップもでき、小さなウエディングパーティやディナー会場にもなり、お客様からも評判がよかった。特に洋食のお客様の為の会場としても使用し、雰囲気もあり、ヴァンナチュールのワインなども出して、いい感じだった。。

あんな旅館があったら私も泊まりたわ!!というほど素敵な旅館だったのです。私の去った後、数年で元夫は廃業を決め、現在はもうない。そんな田舎の一軒宿、塩川原温泉・美人の湯 渓山荘という旅館。

ずーっと今までもこれからも愛おしくてたまらないんですよね。。

そんなこともブログに書こうと思う。だって一生懸命だった。。わたし♫

女の子二人育てながら、病気がちな義理の父と自分の両親とのバランス、、、とれてるのかどうかすらわからない日々。

長女の不登校はへこんだ〜
それでシュタイナー教育とか興味ができたり。。カリフォルニアのシュタイナープレスクールを経営している友人とこに娘と母と3人で旅もした。

人生長く生きていると色々あるけど、、今わかることは起きることは必然で、その時は意味がわからない点だとしても、、時を経てその点と点が線となって繋がっていることに気づく時がくる。必ずくる。その時に生きててよかったあ。。って心底思える感動をもたらす時もあるんだということ。


長く生きてるっていっても、、まだまだ50代。。若輩者ではありますが、ゆるく楽しく生きていこうと思いますわ。。

話は色々と飛びますね、、

さらに飛びますと。。

私は結局は踊りが好き!ということをずっと思っていて、踊りは世界を救う!とまで思っているわけですよ。盆踊りなど皆で輪になる的な、そういう表現を共有したいなあ、、、とどこかで妄想している。

ライフワークのベリーダンスとバレエ、(フラは今はお休み中、、特に古典フラが好き)を続けている中で、帯広で出会ったベリーダンスのYuka先生に魅了され、彼女のベリーダンス、そして、ダンスの先輩、聡美さんの踊りと前衛書も素敵で、、そこに私のいけばなとか、、日本の文化と踊りが融合した和を表現をできたらいいなあと、おぼろげに思っていた。

なんかの時にそれが口をついて出たのだったかな、、あまり記憶がない。。Yuka先生がやりましょう、、ってことを言ってくださって。。なんか実現してるじゃん。。って顔が緩んだ。

それは中札内村の我が家での夜だったんだけど、妄想が現実化して、、先生がお帰えりのとき、外で見上げた満月に光の和がかかっていて、、なんて綺麗な空なんだ、、、って思って。。

それをみんなと分かち合いたくて、すぐにFBに書き込んだんでした。

それで、その日の月は滅多にないブルームーンの日だったと分かった。だから余計忘れられない。

夢が叶った日がブルームーンだったことを。

この話の最初のきっかけは札幌在住のアーティスト・アイオラさんの歌とYuka先生と聡美さんのダンスのライブ会場で、いけばなを依頼されたことが発端だったかもしれない。

その時はそのライブ会場は踊りと歌で世界観が出来上がっているから、わたしは入れないです。。と、とっさに言っていた。

せっかく誘っていただいたのに、後悔はなかった。私には無理だな、って思っていたのかな。

後で聞いた話だと、アイオラさんからも無理だよ、、って言われていたみたい。。笑

ただ、、先生の気持ちが嬉しくて、そこからかなあ、、書といけばなと踊り、、という三つが、頭の中でくるくるし始めたんだね。

そんな流れで、Yuka先生と聡美さんと私との「翡翠」ヒスイというパフォーマンスチームが生まれた。

私のパートナーはネーミングが上手い。名前が口をついて出てくる。チーム名なんかないかな、、という一言で、色々言ってくれた。

その中の一つがすごく気に入った。
「翡翠」。漢字も美しい。英語だと、、JADO ジェードともいう。

その後 縁あって、太鼓も加わって、ライアーやゴングも使おう、、嬉しい勢いで夢が叶っていく。

観客とステージを分断しないアート。溶け合う、融合しあう踊りと音とゲスト。それをなんと呼ぼう、、。3人でのミーティング中。ふと私のイメージの中にキラキラと雪の結晶が舞い降りてきて、地面に落ちて溶けた。なぜか、急にふっと笑いが込み上げて、、Yuka先生に イメージを伝えた。

「とける」とつぶやいた途端に、先生がいきなり「melt」メルトって言おうと思ってたなどど言う。その言葉の響きがすぐ好きだとわかる。

「メルトアーティスト」という造語ができた。コンテンポラリーダンサーでもなく、、お客様と溶け合う、メルトな世界を踊りと書といけばなで遊ぼう♪メルトアーティストとしての芸名(笑)もできた。

雪月華からそれぞれがとって作った。私は操だから、操雪(ソウセツ)、Yuka先生は由月(ユウゲツ)、聡美さんは聡華(ソウカ)と決まった。

お茶の免状をいただいた時に「宗操」ソウソウという雅号を20代の頃にいただいていて、いけばな、ウエディング、wsなどの活動はその雅号を使ってた。翡翠の時は「操雪」としていけばなと舞でゲストと一緒に遊ばせていただきますね。

Yuka先生から翡翠の主催は「アトリエてらす」でやってね。。と背中を押してもらっている。ツレが経理担当。

世の中も色々あって、今までたくさんのことが起きて、出会いと別れもあって、人生のシナリオはまだまだ続くわけで、、初日の「note」は 長く自分を語りました。

お読みいただいて感謝いたします。
本当に嬉しいです。

これらを仕事にして食べていけるか実験。好きなことして生きていく実験。

是非面白がって読んでくだされば幸いです。

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