子どものころ映画を観にいった話。

10歳まで兵庫県の尼崎に住んでてん。左隣りが化粧品屋さんで右隣には文房具屋さん。オレん家はパン屋さん。でもお米も売ってたかなぁ?記憶が正しいなら、店先で回転焼きも焼いて、お好み焼きもやってた。何屋さんかよく分からん。

隣って言っても建物は繋がった長屋で、屋根からでもベランダからでも簡単に隣の家に入れた。
うちの長屋の向かいにはお肉屋、魚屋、お菓子屋、文房具、プラモも売ってたし毛糸なんかも。「共栄市場」って書いてたかな?いろんなお店屋さんが並んだ市場の入口があったんや。
コンビニはおろかスーパーマーケットでさえも数少ない時代、市場の細く長い商路はいつも大勢の人たちで賑わってて、その直ぐ先には国道2号線があってん。道路の真ん中にはガタガタ?ゴーとか路面電車がうるさく走ってて、片側2車線の国道で線路もあったやろ、とにかく子どもには物凄いでっかい道路に見えたわ。

阪神電車の尼崎駅前に三和通り商店街ってのがあって、当時はその商店街の中に映画館があったんや。まだ若かった母ちゃんがちっちゃいオレの手を引いて連れて行ってくれた、
「ゴジラ対ガイガン」
これがオレの映画初体験。映画館の出入り口はたいして大きくあれへんのに、中に入ると小学校の体育館よりでっかい?そんな風なことを思ったかなぁ、映画の内容は全然憶えてないけど。

帰り道、路面電車の中で突然赤ん坊が泣きだしたんや。その赤ん坊を抱えていたおばちゃん、母親やな、が、さっと乳房をだしておっぱいを吸わせるねん。電車の中でやで!そんな時代やった。

長屋の裏手には小さな工場があって横を通るといつも金属を切るような音がしとった。そのもう少し向こうに銭湯があって、歩いても2、3分くらいの距離で、2日に一度は行ってたかな。2つ上に兄がいて、その友達も一緒によく行ったわ。
銭湯の入り口には番台があって、そのまま脱衣所で、そこに映画のポスターがいつも何枚か天井から吊るしてあったんや。ゴジラもガメラもチャップリンも、そこに吊られてた。その銭湯にあった広告用のポスターこそ、オレの人生の中に映画を招き入れてくれた入場券となったわけや。

友達同士で映画に初めて行ったのは中1か中2か。
小学4年の夏休みに豊中へ引っ越した。隣町やったし、それほど遠い距離でもなかったけど、それを知ったのはもう少し大人になってからや。当時は家の近所しか知らん子どもが、見知らぬ土地で生活を始めて不安だらけの毎日で、あ、でも、夏休みの間だけか。学校へ行きだすと直ぐに友達ができた。住むとこが変わっただけやったのに最初はなんか違和感だらけやったなぁ。

尼崎時代、友達と一緒に近所の氷屋のジジイをよく見に行ってん。仲間うちでは「アル中ジジイ」って名をつけて有名やった。アル中って当時は意味も知らんかったけど。
でも今は「氷屋」の方が分からんかな?商店街で見かけることもなくなったもんなぁ。商店街じたい絶滅寸前やろ。昔は大きな氷、カラーボックスくらいの大きい氷をノコギリで切って売ってたんや。誰に売ってたかまでは知らん。
氷屋のジジイは昼間に必ず牛乳を飲むねん。その牛乳瓶の蓋を明けてから自分の口元に運ぶ間、手がものごっつ震えて牛乳の半分は床に撒き散らすんや。ほいでやっとこさ飲める頃には瓶の中の牛乳は残り僅かとなっている。これを遠くから見て友達とゲラゲラ笑っててん。
あと、道が二股に分かれるとこに八百屋があって、そこには「にいやん」と呼ばれるオッサンがいたんや。喋っても何を言ってるのか分からんオッサンやった。母ちゃんに”にいやん”の話をすると「あんまり関わったらアカンで、普通の人やないから」。今で言う知的障害者やったんかなぁ。でも”にいやん”はプラモデルの組立てが誰よりも上手かった。オレがプラモの困った箇所があると必ず引き受けて完璧に作ってくれた。母ちゃんは完成したプラモをみて「あんた上手やなぁ」と褒めてくれたけど、出来栄えがええのは殆ど”にいやん”がやってくれたプラモやってん。

豊中に引越したとき、まずジジイやにいやん様な人はいそうになかった。小学4年生といえどもそれくらいは判った。尼崎のときは市場や商店が並ぶ、ちょっとした商業地域やったけど、豊中は田んぼと住宅街、オレん家は長屋から新築マンションへと変わり、うまく言われへんけど、なんか人種も違ってたな。
例えば、尼崎のときは友達の家に行ったら玄関先で「いてるか〜」と中に勝手に入っていってたけど、豊中ではそうはいかへん。まず玄関自体あいてへん。「おじゃまします」なんてことも言ったことがなくて、ただ恥ずかしい儀式でしかない。どうかならんかなぁ、面倒やなぁ、「来たで〜」で済まへんかな〜、何度もそう思ったわ。家にあがっても高級そうな絨毯にバイオリン。バイオリンやで!初めて見た。
「お前、これ弾けるん?」と言うとGメン75のエンディング曲を引きよった。「いつか来た道〜」で始まるあの名曲。驚いたわ。メガネかけて気取ったヤツやったけど、なんか格好良くみえた。
「オレもやらして」
「絶対アカン、これ高いねんぞ!」
高価なもんと聞くとびびってやめた。
小さい頃、知らんクルマのドアにいっぱい落書きしてたら、うちの親父が持ち主に呼び出され弁償させられたらしい。
その日の夜に親父が「お前クルマに落書きしたやろ、キズもいっぱいあったぞ。跡つけられたのも知らず家に帰ってきたからパン屋の子ってのが直ぐバレた。弁償せなあかん、めちゃくちゃ高いんやぞ!」と死ぬほど怒られた。それ以来「高い」は「怖い」や。

んで、何の話やった?

そう、初めて友達と映画を観に行ったんや、母ちゃんは一緒やないで、友達と二人だけ。

「カサンドラクロス」やな、かさんどらくろす。続けて2回観た。おそらく大阪梅田の北野劇場。今のHEP NAVIO。列車の中に何かの病原菌が感染して、最後に列車が橋から落ちる、思い出すイメージはこんな感じや。何の話か分からんけど要するにパニック映画。
当時ではけっこうリアルな映像かな?けど、最後の橋から列車が落ちるシーンは急に模型になって、オレは観ながら思わず「模型やん」と口から出てしもた。

中学生の1年か2年か。いっしょに観に行った友達は、豊中のヤツやなくて尼崎の小学校からの一番仲ええヤツ。いわゆる幼馴染や。2階建の1階、アパートに住んでたわ。当時ではまだ珍しい電子レンジがあってん。コップに牛乳入れて電子レンジのボタンを押すと中に灯りが点いて
「なんでグルグル回ると熱くなって出てくんねん?」と言ったら、
「アホか、回転やない、光や。この光線で熱なんねん」
「ほな回らんでええやん」
「これ25万円やで、高いヤツは回るねん。格好ええやろ」
安いレンジでも回ってたけど、50年以上前のレンジは何でも20万円以上してた。

電子レンジも珍しかったけど、アイツの飼ってたペットはもっと珍しかった。大きな白いインコがいて「おはよう」とか「ただいま」とか喋ってたし、アロワナが水槽で泳いでた。メチャでかい水槽や。その隣にちっちゃい水槽で金魚が所狭しに泳いでる。
「アロワナな南米から来たんや」と友達が言う。
「ナンベイ?」
「知らんやろ、アマゾンや!」
「アマゾン!?」
今ならアマゾンはネットショッピングやけど、当時は仮面ライダーアマゾンが始まる前やったから、オレにしてみれば初めて聞くような言葉で、何となくメチャ遠い国から来た感じだけ分かった。見ていて怖そうな魚やったけど、直感は当たったな。
「もうじき父ちゃん帰って来るし、帰ってきたらアロワナに餌やるから見て帰り」
「アロワナって何たべるん?」
「それは見てのお楽しみや」
多分、オレは口が半開きになって眼をギュっと凝らして見てたと思う。驚きと、残酷さと、自分も知らない奥の方で生き物の宿命的なことを悟ったかな。隣の金魚が餌やった。「今日は8匹や」と友達の父ちゃんが言う。大きい水槽に移された金魚たちは何も知らず泳いでいるが、パクパクあっと言う間に食べられてしまう。
「どや、このサカナ、えげつないやろ」
友達が言う通りえげつない魚やったけど、オレはもう一度見たいと思った。子どもにとっては残酷さも好奇心の一部やな。

それから、まだある。サルや。猿も飼ってたんや。苦手やったな。
「目を合わせたらアカンで、絶対サルの方を見んなよ」
そう友達は言うけど、いっつも見てまう。で、オレに襲いかかってくる。首か足か鎖で繋がれていたみたいやけど、オレは何度も服を手で捕まれ、一度つかまれたらなかなか離せへん。その度「このサル死ね」と思った。サルとは楽しい思い出がない。もし、サルと楽しい思い出があると言うヤツがいたら、そいつは紛れもない変態や。

中学生になって久しぶりに会ったら、めちゃヤンキーになってた。髪も金髪に染めて、痩せた体にジャケットを羽織って、いかにもチンピラ的な風貌やったけど、所詮中学生やん、大人からみたら子どもの延長戦に見えたと思うわ。
新しくできた住宅街の中の小道を小便しながら歩いて、自転車に乗ったおばちゃんが悲鳴をあげながら通り過ぎていったし、曽根のダイエーでは従業員のおっさんと大声で口喧嘩になったし、毎回遊びに行くたび何かのトラブルが起こって、次第に会わんようになった。

初めて女の子と二人で映画を観に行ったのは中学3年の秋〜冬だったかな。「ゾンビ」
今ではゾンビって映画の中で一つのジャンルになってるやろ。何が魅力か理解に苦しむけど。
これも阪急電車に乗って大阪梅田の映画館で観た。満員で立ち見も大勢いたと思うわ。
当時、梅田には数多く映画館があって、大きいところでは北野劇場とOS劇場で、OS劇場は一番大きかったかな。スカラ座に三番街シネマ。確か三番街シネマでベルトリッチの1900年を観た記憶やな。映画で5時間以上の大作や。

でも、残念ながら中3で初めてつきあった彼女についてはあまり憶えてへん。名前は「あつこ」やったけど、どんな話したとか「彼女の好きな食べ物は?」と尋ねられても全然記憶にあらへん。違う高校に通うことになって、なんとなく別れて、また高校2年のときに復活する。けど、全く経緯が思い出されへん。もちろん可愛かったで。顔や容姿は今でも鮮明に憶えてる。120%可愛いい。
ほんまにあの頃どうやって連絡してんやろ。交換日記もやってかなぁ。中学校の裏門で待ち合わせて、二人きりで帰ったりしていたことは憶えているけど、どうやって待合せの約束をしたんやろ、憶えてない。家にも何度か遊びにきて、その都度迎いにいったり送って行ったりしてるはずやけど、細かいことが思い出せない。それはそれで何か刹那くなるなぁ。オレの家は両親と三人の男ばかりの兄弟だったので、当時の彼女の気持ちなんて皆目わからなかったし、オレは何もかも緊張していたし。付き合うなんて言っても、内容は学校から一緒に帰ったくらい。映画もゾンビを観たけど、それ以外に2人で行った思い出は思い出せへん。でも、そんなもんかぁ。

オレの母ちゃんはまだ生きていて、買い物、自炊、散歩、を自己完結。88歳になるけど立派なもんや。オレがその年になるまで、まだ28年あるけど全く自信ないわ。
この間、電話で母ちゃんと話をしていて、尼崎に住んでいたころの話になったんや。その時、話しながら当時のことが思い出されて、いろいろ思いつくまま質問してみた。
「なあ母ちゃん、50年以上前になるけど尼崎に住んでた頃って憶えてる?」「憶えてるよ、尼崎時代が一番憶えてる。昨日とか一週間前の事より簡単に思い出すわ」
「三和通商店街の方にゴジラの映画いっしょに観に行ったの記憶ある?」「映画にアンタ連れて行ったことは、もう憶えてないなぁ。武庫川に行って遊んだのと、ジャングルジムから飛び降りたり、ブランコの下に潜って寝そべったりして、ほんま頭ぶつけて死ぬんちゃうかと思ったわ」
「オレそんなんやってた?」
「名前は思いだ出せへんけど、あの頃遊んでた友達と一緒に 、そればっかりやってたわ」
「アイツとならやってかも」
「参観日に小学校いったやろ、アンタがアタシの手を引張って、そのブランコ芸を見せたんや」
「憶えてないけどオレ、アホやな」
「アホやない。賢ないだけや」
「いっしょやん」
「アホは本当に限られた人だけ。賢ないは、みんなそうや、普通の人や」
「何それ初めて聞いたわ。あと近所にあった氷屋のじいちゃん憶えてる?」「ああ、知ってるよ。銃弾三発喰らって死にかけた人やろ」
「銃弾?アル中で手が震えるじいさんやで?」
「ハハハ、アル中やないで。戦争でお腹と肩と腕と鉄砲で撃たれて、それで手が震えるようになったんや」
「ホンマに?」
「あのじいさん、女の人にはシャツをめくって被弾した傷跡をみせるねん」「じゃあ、八百屋にいた若いオッサンで‘‘にいやん‘‘って呼ばれてた人は知ってる?」
「にいやん?」と母。
「そう、プラモデル作るの上手かってん」
「ああ、あの‘‘にいやん‘‘なぁ。プラモデルや玩具、人形、子どもが興味あるモノは詳しい」
「そう、それそれ」
「子どもの興味を引いて、変なイタズラばっかりしてたやろ。終いに警察に捕まりよった」
「・・・・・」
「にいやんは限られた人や」。




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