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絵が描けない僕と、AIイラスト

書き出し

先日、pixivが『FANBOX』でAIを用いた支援募集を停止することを発表した。Twitterでは、様々な意見が飛び交い、僕のTLでも色々見られた。

pixivによると、現在の『FANBOX』では、生成AI技術により短期間で大量に作成されたコンテンツを販売することのみを目的に利用されることが多く、今後もその傾向はより強まっていくと感じて」おり、「それは本来私たちが目指していたサービスの姿とは異なる」ため、『FANBOX』では「AI生成作品の取り扱いを当面のあいだ禁止することを決定した」とのことです。

Yahoo Japanニュースより

昨今、AIを用いた技術の発展は著しいものがある。僕もよくChatGPTで色々、質問したりする。今日の献立を考えてくれたり、畑の世話の仕方、布団の干し方…しょうもないしりとりなんかにも付き合ってくれる。

一方で、僕は画像生成のAIは使ったことがない。Twitterでは日々、様々な画像が生成されて、それをツイートする人もいるし、RTする人もいる。
中には、「これは芸術の革命だ!AIが人を凌駕する!」なんて言ってる人も見かけた。その人はAIに出力させた綺麗なイラストを見て、こんなのを出せる自分はとても素晴らしいと喜んでいた。

さて、いま色々言われている、このAIによる画像生成技術。
僕なりに最近、感じていることを書いていこうと思う

僕とお絵描き

先に断っておく。僕は絵がとんでもないくらい描けない。美術の成績も2だったし、デッサンのテストで1点(10点満点)つけられたことだってある。
先生には「真面目にやれ」と怒られるし、基本的に絵を描くという行為そのものに、かなりのコンプレックスがある。
ちなみに先述の美術2というのは、本当は1のところ、出席してたから2だったそう。
(ちなみに、この記事のヘッダーは僕が描いた絵である)

そのため、絵が描ける人を心からすごいと思っている。一時期、そんな人達に憧れて、絵の練習もしてみたが、さっぱりだった。どうにも続かない。そういう継続する力も含めて、絵描きと言われる人たちの技術は、本当に尊敬している。

きっと、何時間も描いて、たくさん観察して、練習して、挫折もして、それでも乗り越えて来た人たちなんだと思っている。そして、その人達は口を揃えてこう言う。

「私は絵が描けない!」

全く、とんでもない人たちだと思う。見ている景色が違うとか、そういうのは置いといて。

僕は絵を描くという創作をする人たちを、神聖な存在だと思っている。
自分の中に秘めたもの、魂を燃やして、創作に、表現に向き合っているんだと。

そんなすごい人達を脅かす技術が、最近現れた。

AIによる画像生成である。

AIイラストという技術

これを初めて見た時は大変驚いた。絵を描くという行為は、人にしか出来ないものだと思っていたからだ。

僕が一生懸命、描いたしょうもない絵より、ずっと綺麗なものがあっという間に生成されるというのだ。
仕組みとしては、学習した画像データから、欲しい要素を抽出して…というものだが、それをこうも整えて出力出来るなんて。

これを使えば、簡単にイラストが描ける。まさに夢のような技術だ。

しかし、当然だが世間では、様々な論争が起きた。これについては、もう皆さんもよく知っていることだと思う。詳しくは書かない。
新しい技術が生まれれば、それを悪用する人が現れるのは人類の歴史上、仕方のないことだ。

気がつけば毎日のように、AIで出力された、とても綺麗なイラストがTwitterのTLに流れて来る。
それを称賛する人たち、AI絵師を名乗る人たちの台頭……。

そんな日々の中、僕はある違和感を感じていた。

しょうもない絵

僕の描く絵は、とてもしょうもない。デッサンもちゃんと出来なければ、色塗りも下手だ。正直、大人が描いたと言ったら笑われても仕方ないだろう。

しかし、僕は自分の好きな声優さんや絵描きさんのキャラクターを描いて、送ってみたことがある。いわゆるファンアートというやつだ。
思えば、本当に恥ずかしい話だ。いま、その絵を見返したら、恥ずかしくて死んでしまう自信がある。

そして、そのヘタクソな絵を見て…誰も僕を笑わなかった。それどころか喜んでくれた。メッセージだけだったから、本当はバカにしてたかもしれない。
けど、少なくとも、そんなことを送って来た人は、誰一人としていなかった。

このことから、学べることがある。人は絵そのものの上手い下手より、そこに至る背景を大切にしてるんじゃないかと。
僕だって、誕生日に友人が絵を描いてくれたりするが、もらったらすぐにTwitterのアイコンにして、一年ずっと使うくらいには嬉しい。全部専用のフォルダを用意して、そこで管理している。

それと、もうひとつ。僕はそれを描いている時、とても楽しかった。結果はさておき、その時の感情はしっかり覚えている。そして、それを受け取った人の反応を見て、また嬉しかった。

絵を描いた後に残る結果ばかり見がちだが、本当の意味での絵を描くという行為は、こういうところが大切なんじゃないかなって。

僕は絵を描く方の人間ではないが…。

だから僕は、AIに出力させた絵を誇らしそうにTwitterに上げて、誇らしくしている人を見て、違和感を覚えていた。
その画像には、そこに至るまでの物語や感情はない。その人の思考や伝えたいことも表現されていない。あくまで、過去の画像から学習して、出力されたものに過ぎないから。

終わりに

この記事は絵が描けない僕が、普段なんとなく思ったことを言語化したに過ぎない。当然、商業用やしかるべき場所、また違った世界から見れば、違う意見があると思う。
まだまだ様々な議論がされている中、この記事は僕が思っていること…ただそれだけだ。

よって、誰かを批判したり、否定するつもりはない。僕はそのように思っているし、この記事を読んだ人が、何を感じ取って、どう思ったところで、それはその人の意見だ。
自分以外の人がどう感じるか、それは善悪や正誤で僕が量るものではない。

もちろん、AIによる画像生成が悪とは言わない。進歩した技術は絶対に止まらないものだ。
僕だって、ガラケーで一生過ごすと思っていたし。

最後に、岡本太郎の書籍から、芸術の三原則を引用して終わろうと思う。
が好きなだけです。

【芸術の三原則】
芸術は…
・うまくあってはならない
・きれいであってはならない
・心地よくあってはならない

岡本太郎『今日の芸術』より

AIの出力するイラストは、上手く、綺麗で、心地よい。それを大量に、瞬時に生成できる。

だが、果たしてそれは本当に美しいだろうか?

この本は1954年発行…いまから約70年前のことだ。

このことを…あなたは、どう思うだろう?




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