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人生は断片的なものが集まってできている

社会学者の岸政彦が書いた「断片的なものの社会学」というユニークな本がある。その名の通り、著者の断片的な、しかし忘れられない記憶の数々を記した本だ。タイトルは、その最初の見出しから取った。

最近ぼくも、過去の断片的な出来事の記憶が、唐突に、ふと蘇って来ることが多くなった。何故かは分からない。というのは嘘で、菊地成孔のブログで「ミッシングパーソン」のことを読んだからだ。

人生のある時期に出会い、場合によってはほんの数分会話しただけで別れ、場合によってはかなり親密な関係になって長い時間を共に過ごし、しかし、そしていつしかその関係も終わりを告げて疎遠になり、もう何年も、何十年も会っていない、SNSでのつながりもないから会う術もなく、おそらく高い確率で死ぬまで会うことはないだろう、自分にとってのミッシングパーソンとの、断片的な思い出。

例えば1995年の5月にオーストラリアのとあるユースホステルで会い、どういう流れか忘れたが、夕食後に複数人でテーブルを囲んで話をした中にいた、ある年上の日本人女性。翌日彼女が出発する時に「もし良かったら、これ読む? なかなか面白かったよ」と言って、読み終えたばかりの森瑤子「ベッドのおとぎばなし」の文庫本をくれた、そのやりとりをはっきりと僕の脳は引出しに整理して記録しており、こうして思い出すことができる。本の装丁まで。でも、不思議なことに(でもないか)、残念ながら彼女の顔と名前は全く記憶にない(白人男性と一緒だったことは覚えている)。そんな断片的な思い出。

あるいは1988年、ボウイが解散した年に高校に入学した僕に、入学祝いだと言って「LAST GIGS」のCDを、一緒にぶらりと入った街のレコード屋で買ってプレゼントしてくれた、これも年上の女性との小さな出来事。

あるいは、それまでほとんど面と向かって話したことのなかった一つ上の女性との小さな会話。それは僕が大学受験で宇和島から東京に行って戻ってきたところだった。その東京からの帰りの飛行機で隣に座った中年男性のオヤジ臭が大変で、もう靴まで脱いだと思ったら靴下まで脱いじゃってすごかった、大迷惑だった、という僕の拙い話を笑いながら聞いてくれたその美しい女性は、もう現世にはいない。天国で穏やかに暮らしてるといいな、と思う。そちらの暮らしはどうですか? 僕はリッパにガキのままオヤジになりましたよ(笑)。

もしくは、中学時代の同級生との断片的な出来事。彼は札付きの不良で、僕も何度か機嫌を損ねて腹を殴られ腹筋を鍛えてもらったものだったが、卒業して4〜5年後、大学生の時に帰省して自転車で商店街を下っていたら、「XXXX〜」と僕の名前を呼びながら手を振ってくれた時のこと。その後しばらくして、大学時代の悪友と遊んだ徹夜明け、松山市のマクドナルドでモーニングを食べながら眺めた愛媛新聞は、その手を振ってくれた彼が逮捕されたことを告げていた(たしか恐喝の容疑だった)。

あるいは若い時分にオーストラリアを旅行中、名前も忘れてしまったどこかの町のどこかのビーチで、どういう訳かその日宿で知り合ったばかりのドイツ人の女の子と星を眺めたこと。もちろん名前も、もちろん顔も覚えていない。向こうも覚えていないだろう。

人生は断片的なものが集まってできている。
それは往々にして人生において重要な意味を持たない(例えば人生を左右したりしない)出来事であるが、しかし、そのうちのある出来事は不思議な余韻を残したまま記憶に残り続け、ふとしたタイミングで記憶の底から蘇ってくる。

そんな断片的な思い出を、思い出すたびに書いていこうと思う。



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