やまちゅう
行ってきた映画・展示で感じたこと学んだことをまとめとく
日々感じたことを言語化しておく 目的 ・まとまった知識セットとして外在化するため ・仕事以外の余白を図るKPIが欲しいため ・日々の思考レベルを深化させるため ※0秒思考→音声入力→AI加筆修正
建築系特化コーチングを再開します。こんにちは。やまちゅう(@sosoyamachu)です。 3月〜8月の約半年間に渡り、 10名のクライアントに対してコーチングをしました。 「建築していると自分の人生を戦略的に考えたり、本当に何がしたいのかを深く考える機会ってほとんどないよなー」というモヤモヤから始めたサービスでしたが、想像以上の反響が得られました。 一通り終えたクライアントからは、 「自分ではたどり着かない部分をめちゃめちゃ言語化された気分」 「自分の芯を確立でき、こ
「建築デザイン」という職能を事業で考えたとき絶望しませんか? 上記がこの記事の問題定義である。 これだけを見た反応の予想は3つを想定している。 ①「あー、めっちゃわかる、、、」 ②「いやいや、事業として考えるんじゃなくてさ。 好きだし得意だしこれだけをやり続ける人生がいいんだよ。」 ③「(…ピンと来ない)」 ①の人にとってはこの記事は価値があると思う。 ②の人は読むとむしろ危険です。もしあなたが客観的に見ても建築デザインのことを四六時中考えていて実績もあるのであれば、そ
宗教と欺瞞に満ちた制度と実存の話 宗教においては 分かりやすい 主従関係であったり 階級であったり 性愛としての余暇 に 人々は満たされる つかの間の安定と 何か決められた枠に 依存することによって 人々は大切なことをごまかし 生き続けることができる 違和感を抱えるもの 怒りに燃え上がるもの 何かを取り戻そうとするもの 人とのつながりを求めようとするもの そういった根源的な何かへの活動や体現 そういったものを大切にする人だけは輝いて見える 売
昨日東工大の修了式に参加した。 学長の挨拶であったり 来賓の方の祝辞 があったりした中で 特に印象的だった 来賓の方の強いメッセージについて書きたいと思う 「価値を想像してこそ社会に生かされていける」 これがそのメッセージあり 今回のノートの主なテーマだ 自分はこの言葉を聞いた時に始め ぎょっとした。 近頃はずっと資本主義に対する負の側面を学んでばかりいたり 障害や社会的弱者に関する映画や 書物を読み漁っていたり 自分自身 価値のあることばかりをせずに価値のない
杉咲花のラジオを聞いていた時に 彼女が何よりも大切にしていることが生活だ という言葉がすごく印象に残っている 自分の生活を大事にすることに 何かすごく重要なことを 本能的に感じる瞬間であった 特に 杉崎花のように人間的な 奥深さがある人が 生活が何よりも大事だということには すごく何か説得力のあるようなものを感じた ではどうすればいいのか 杉崎花 であったり あるいは YouTube のインリビングのような 丁寧な暮らしをすればいいのか それは違った話だと僕
ノートを書くことに関して自分はすごく最近可能性を感じている 理由はたくさんあるけれど 資本主義の抵抗という目的が一番腑に落ちている 資本主義とはあらゆる行動やプロジェクトや事業 そういった物事を目的であったり資本であったり そういう役に立つものに還元する作業であると言える 多くの社会人 そして特に優秀な社会人は ただがむしゃらに数字を負ったり 業績を作ったりと そういったことに価値を生み出す脳みそのモードになるのではないだろうか 自分もこれからそういう一面を
人間の欲望には主に4つあるのではないかという考えについてまとめてみたい まず 前提として「欲望は模倣する」という本を読んだことがある この本の驚くべき視点 主張としては 人が抱える多くの欲望は他者の模倣にすぎないという主張である つまり有名な人であったり自分が身の回りにいる人から 何かその人の欲望自体に影響を受けて あの人が欲しいものを自分も欲しいと無意識的に反応してしまうという欲望についてである これについて知った時多くの人は ドキッとするのではないだろうか
ナワリヌイという ロシアの活動家のドキュメンタリー映画を見た 彼の異名は彼の異名は 「プーチンの宿敵」だそうだ 正直ナワリヌイという名前も、 プーチンが何を実際にやっているのかも、プーチンのブラックなイメージはどこから来るのかも そういったロシアの内実についての正確な知識はほとんどとも言ってもいいほど僕は持ち合わせていなかった 実際にこのドキュメンタリー映画を見ていた 前半においてはナワリヌイという活動家が、かなり大げさに プーチンを批判し、倒そうとし、自分のフォロワ
正常な人を精神病院に送り込んだら?というテーマの映画。 正常であると医者や看護師に伝えても取り合ってもらえない。 正常か統合失調症かの判断は医者ですら難しい。 病院の綴じた空間はまるでホラー映画の監獄のようですらあった。 監視とプライバシーのなさ。 弱者に対する抑圧と間接的な洗脳。 また、精神病院で「正常ではない人々」に囲まれていると、 正常とはそもそもなんなのかという違和感が不穏に感じさせる。 数週間にわたる精神病棟での実験を経た後、 彼女は本当に統合失調症になって
ポスターと「だーれだ」から連想される、「怪物」探し。誰が狂っているのか、誰がモンスターなのか。そういった先入観で見始める。前半では母子家庭を取り巻く周りの無関心さや冷たさ、狂気を感じ、母親と一緒にイライラする。 しかし物語が進むにつれて、「怪物」とは無意識に犯人捜しをしてしまっていた鑑賞者の心に潜んでいたのだと知る。この怪物は鑑賞者同様に、登場人物たちのお互いの目線でしか物事を認知できないが故のすれ違いによるものでもある。 物語りを見終えてみて、実際に本当の怪物はどこにもいな
人間の狂気とは、単純化の果てにある 前後半で「死ぬ」2人がきれいに対比されていた。 前半では、無能で、武器を愛し、殺戮マシンになりきれなかったレナートが死んだ。 後半では、有能で、武器に愛されず、殺戮マシンに堕ちたジョーカーの人間性が死んだ。 ジョーカーが人間性を失ったきっかけが、他人へのやさしさだったというのが皮肉だった。これまで矛盾する物を抱える事が出来ていたジョーカーだからこそ、敵兵の救済によって自らを闇の底へ落としてしまった。 戦争ものとしてキングダムのカンキ
「戦えん者たちのための、終わりのなき戦い」 3つのことを注意深く鑑賞した。 ①当事者性 ②クリエイティブの可能性と覚悟 ③責任の所在と救い ①当事者性 水俣病の当事者たちが何を考えているのか、どうしたいのかを尊重すべきという思想も感じた。 写真なんて、最悪そのまま撮ってしまえばいいのだけど、 「顔は映さないで」「娘を見せることは出来ない」など、写真家に対する協力の度合いと、当事者たちの苦悩と葛藤のせめぎあいを感じた。 写真だけでなく、こういったクリエイティブには当事者性と
「虚無感・存在意義の渇望・何者かになりたい」が蔓延る時代背景に、主導権を握る側と従属する側が生まれる。仕事と愛が救いだというフロム的思想が示唆されていた。フランクル信者としては享受と態度(希望を見出す意志)にも可能性を感じる。
人は性善説か、性悪説か。 その答えがこの映画にあった。 人間は基本性善説だ。災害や戦争が起きても暴動を起こすどころか支え合う。ただし、コミュニティの外には驚くほど暴力的といえる。 ホモサピエンスは、同時代により筋肉と脳容量がある別種の猿人が居たらしいが、それらを団結して滅ぼした説もある。 集団で助け合うことに喜びを感じるが、その集団の敵となる相手に対しては容赦なく攻撃する。 集団を守るために、集団の外を殺す。劇中で一番攻撃的であったのも、眼鏡の軍人と子守している女だっ
ポピュラーミソジニーの話。 ただし、「寄生」なしに、しかも最後は自力で理想的な男性性を克服する。 ポピュラーミソジニーのよくあるコンテンツでは、 「寄生」によって弱者男性は力を得て、存在意義を得ていく。 寄生獣、怪獣8号、ヒロアカもそうだろう。 しかしこのファイトクラブでは、単なる外部の力ではなく、 「もう一人の自分による寄生」によってヘゲモニー的男性性を獲得していった。 「もう一人の自分」は、男らしく、賢く、自由奔放にふるまう、自分が潜在的に理想的だと思っていた自分の
日本の労働環境の異様さをコスタリカ人ジャーナリストが批評するドキュメンタリー。 日本のサラリーマンは基本的に何かを「犠牲にして生きている」という人間が多い。我慢することで、それと引き換えに何かを得る。 家族を養うこと、自分が生活する事、安定した老後を送る事。 だがそのためのコストはあまりに大きいように思える。 それは多くの場合「自己」だ。 「良いサラリーマンになるために、夢を捨てる。本性を隠す。」という言葉が象徴していた。 多くのサラリーマンは朝から夜まで働き、わずかに残