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僕はどこにいくのだろう

愛知県一宮市でsosoというお店をしています。そこでは僕の作ったものを中心に販売しながらぼくらの暮らしをみてもらっています。
Instagramで日々の情報は更新をしていますがnoteでは言葉で僕なりの考え方を発信していければと考えています。素直な言葉で誤字脱字があばたもえくぼのように楽しんでもらえればうれしいです。
僕のことを知らない人の方がもちろん多いと思うので自己紹介を兼ねてどんな経緯で今の生活に至ってきてるのか僕自身振り返りながら自伝のようなものから始めていこうと思います。

学生時代から生活を考えるまで

昔から作ることが好きで美術系の高校に通いそこでモダンアート(現代美術)の存在を知り魅了され、大学も造形大学に通い、卒業後はフリーターをしながら年に1,2度くらい展覧会をしながらアーティスト活動を続けていた。
自分なりに真剣に考え、制作、発表をしていたけど、華やかなアーティスト活動とは程遠いどことなくモヤモヤした日常生活の時間が大半で、テスト前のように自分の企画した展覧会が近づくと制作しているくらいのもの。
それでも30歳を手前に自分なりに少し手応えを感じた始めた時になんとも言えない違和感を感じた。違和感というか間違いのような気持ちを。
縁があって2度オーストラリアでアート作品の展示を機会に恵まれた。きっと自分の作品は外国の方が受けると根拠のない自信があったのでとても嬉しい出来事だった。
始めの時は2ヶ月ほど滞在して海外生活を楽しみながら、制作のプランを練って制作していた。僕としては異国で制作、発表をすることにとても喜びと誇りを感じ、心地よかった。まさにアーティストって感じがして。そして周りも同じような目線で見て喜んでくれているとも思っていた。
滞在して1ヶ月以上経った時、少ないお金の中から国際電話のカード購入し、当時から付き合っていた今の奥様のゆきちゃんに電話をした。メールはしていたものの声を聞くのは久しぶりで嬉しく、こっちの近況を気にしてくれているものだと思い込んでいた僕はどんなことを聞かれるのかな?なんてことまで思っていたけど、ゆきちゃんは自分の親知らずを少し前に抜いたせいで歯の位置がずれ、前歯のセンターがずれてくるんじゃないかと言うことばかり気にしていた。節約してる中でそこそこのお金を払ってかけた国際電話の内容が歯のセンターがズレてるかもしれないという彼女の心配事で終わってしまった僕はやるせなかった。
展示自体はとてもうまくいき好評で、ワーキングホリデービザでいったので急いで帰らなくてもいいからゆっくり観光する事もできたけど、滞在中に制作以外にしなくてはいけにことがなかった僕は「自分は何をしたいのか」「なぜ海外で展示をしたかったのか」「それは日本ではできないことだったのか」など自問自答を繰り返していた。そして不慣れな環境でそこを開拓することが目的だったわけでもないのと英語も拙い僕にとって自分の能力をしっかり発揮できるのは日本が一番だと思えたのこと、そして仮住まいではなくしっかりとした地に足をつけた生活があるのことの大切を実感した経験だった。
帰国して数日実家にいた。その時も翌日から母は掃除機をかけながら今年の梅雨の湿気がすごいすごいと連呼し、僕の過ごした非日常の話よりも湿度の方が大問題だった。

このころから自分が好きでかけがえのないものだと思ってたアートよりも日々の生活の方が尊いのではないだろうかと考えだす。

帰国後人生初の就職活動をし、創業140年以上になる京都の神社仏閣などで行われる祭事や行事に椅子や机、テントなどを貸し出す会社で働きだした。上司は40代2名60代4名70代1名の高齢化の進んだある種最先端の会社だった。
20代後半の僕でも少し負荷のかかる重荷を皆平気な顔しながら運んでいったり、設営したり、パワフルといった感じではないけど、無駄な力を使わず最低限の労力で働いていた。
もちろん仕事が終わりに近づいたり、残業をしなくてはならない時などはさすがゆっくりにはなるのだけど、息が上がって何もできないといった感じがなくマイペースに働き続けておられ、逆に僕ら若手や日雇いバイトさんの方がベテラン社員たちのゆっくりなそのペースに自分のペースを乱され疲労感がでていしまうくらいだった。
その会社のもう一つ面白い側面は廃棄するものが極端に少ない。
テントは通常のパイプテントとオリジナルで手作りのテントがあった。手作りのテントは防水が弱くなってくると防水用の油をテント生地に塗り込むし、机や椅子は杉と桧と一部鉄で出来ており軽くて丈夫。たまに壊れても修復をしちゃえば直るし、簡易ステージなどを仮組みする際に使う木材も使い終わったら会社で地道に釘を抜き何事もなかったように使用するし、紅白幕や毛氈なども洗濯して繰り返し使う。
それらをまとめるために使うビニール素材の荷造り紐も長さを2種類作り切れるまで使い回す。
合理的というよりかその会社内での伝統文化に育っているようだった。
休日もシフト制ではなく自己申告制というのか、前日でも当日でも休んでよかった。もちろん大きなイベント前で忙しかったり、僕はトラックの運転手もしてたので、もう一人の運転手の子が休みの日は自主的に休みを避けるという配慮が必要だったけど、「今日は頑張ったし明日暇そうで天気も良さそうだから休もっと」という気楽な気持ちで休みが取れたのと、午前中だけ働いて昼から現場がないから帰ることも学生気分で嬉しかった。売り上げについてもどんな時でもそんなに変わらなかったらしい。
不況と言われる昨今でも、好景気だった時でも多少の上下はあるものの大きく見ると変わらなかったそうだ。
景気が良くても羽振りが良くなることもなかったけど、不景気になったからといってリストラや減給になることもなかったそうだ。また定年もあるにはあるが、本人の希望があれば体力の続く限り働くことも出来ていた。
二度目のオーストラリアでの展示はこの会社員時代。設営だけのために4日ほど休みをもらい展示をしそのまま帰国。オープニングパーティーには出れず、前日までに自宅に帰宅予定が、オーストラリアで飛行機が遅れ東京止まりでサウナで仮眠をとって朝一の新幹線でそのまま出社。おもしろい経験で展示自体はとても好評だったのと何の勉強してないのに以前より英語が流暢になったのは貴重な出来事だった。
先輩社員の中で一番年上の方と僕はよく二人でトラックに乗っていた。その方は15歳でこの会社で働き出し、司馬遼太郎など歴史小説が好きで暇な時間はいつも読書していた。どんな時も「ええがなー」と笑ってみせて、歴史に詳しかったこともありそれぞれの神社やお寺の歴史なんかも面白く教えてくれた。仕事も目の前のことを一生懸命やってる若手の周りをサポートしながら小さな段差のことをいつも気にかけていた。「この段差が年寄りはつまずくんや」そんな言葉も現場での口癖で作業中はもちろん、祭事などが行われてる時に参列される方のことまでしっかり気遣われていた。あとでわかった話しだけど、その方の奥様は病気で倒れてから30年以上寝たきりで幼い子供二人を男で一人で育てながら奥様の看病もされきたということ。そしてそれを会社には一言も伝えず淡々とやってこられた。とても控えめでいつでも優しく皆が怪我をしないように気を使い苦しみを表に出さないとても芯のある方。自分のことを中心に考えていた僕はとても感銘を受けて心の師として今でも事あるごとに思い出して温かい気持ちになる。

そんな浮世離れした会社やオーストラリアで展示したことから得た経験の中から生活とは何かを考え、アート作品ではなく自分たちの欲しいものはできる限り自分たちで作りたいと思うようになってきた。気にもとめずなんとなくやって来ては過ぎ去る日常に対してしっかりと足を止め見つめて考える、自分の可能性を信じてどこまでできるのかを楽しむような気分で。

生活を考え出して生活が変わっていく

きっかけはシャンプーだった。当たり前に使ってるシャンプー。
ふと、このシャンプーが一番いいのかな?と思ってしまったのです。
お店に行けば驚くほどたくさんのシャンプーがあり、その中からなぜこのシャンプーなんだろうか?他のシャンプーと比べてもないのに、なぜこれを使い続けてるのか?そもそも坊主の僕にシャンプーは必要なのか?石鹸でいいんじゃないか?頭を洗いながら考え出すと疑問しか出てこない。湯船に浸かりながら成分表をそのほとんどが知らない材料でできていてこのモノの正体がわかならい。

「僕の生活は誰が作ってるんだろう」

そう思ってからそれまでの当たり前が一気に疑問に変わった。
目に入るもの全ては僕自身が選んで買って来たもの。自分で生活を営んでるつもりだったけどそれは僕以外の誰かが整えてくれただけのことで選んだ僕は何となく使ってるだけ。そもそもちゃんと選んでいるのかと言うことすら怪しくなってくる。そんなことを考えると全てが嘘くさく偽物のように思え、不要なものに囲まれてる気分になってきた。
何から始めるべきなのかわからなかったけど、まずは自分のしてやりたい事から始めてみた。
酵母から起こし、パンを焼いてみる。
生地を選んでハンチング帽子を作ってみる。
破れたデニムを刺し子や当て布で繕ってみる。
適当にしていた畑をもう少し真剣にやってみる。
ゆきちゃんに言われたものを嫌がらず作る。
そんな思いつくことをしていると、向いてるものと向いてないも、楽しいものと楽しくないもの、やってみないとわからない事だらけで、やる前はどれもできるだろうとたかをくくっていたけど、やってみると自分の小ささと言うか過大評価していたことに気づく。
なんとか形にはできるが操作はできないし、なんていうのか手に馴染む感覚が乏しかったりした。いままで触ってきた素材とは感覚がまた違う感じで落ち着かない不思議な感覚だった。きっと性格に見合った素材があるんだと思ったし、奥に広い世界が待っているかもしれないけど、その奥の世界まで覗きこみたいと言う好奇心が湧いてこないものもあるんだと知った。
それまでは美術というものと出会い、陶酔し、その世界で活動していくものだと思い込み、仲間と夜な夜な集まり机上の空論を重ねることでたいしてなにもしていない自分を正当化し、冷静な判断を怠り自分の理想と今置かれてる現実を区別できなくなっていたんだとこの頃になって思えるようになってきた。
そんな時間も長くは続かず、学生時代の夢と言う麻酔も切れ始めた時に「生活」と言う現実の日常を目の当たりにしたことで、またそれに属し興味があるものを制作することで美術からのリハビリをしたような気分だったのかもしれない。
そこからは少しずつ自分たちの生活には何が必要なのかを本当の意味で考えるようになっていった。

自分の好きなことだけをしてみると

その頃にゆきちゃんと結婚することになる。
まずはお決まりの結婚情報誌を買い、プランや相場など見たりしながらこんな所でするならしたくないなーと思いつつも僕のための結婚式じゃないし、もしかしたら写真だけではわからない何かがあるかもしれないと考えて1度くらいは見学に行こうかと1ヶ所だけ見学にいった。
あまり結婚式自体出席したことはなかったけど、結婚式場ってこんな感じだよなーと思いながらやる気のない担当者に淡々と説明され、やっぱりシステムとして確立された会場に魅力を感じなかったし、そんなお金もなかった。
イベント会場の設営の仕事をしていたし、自分たちで作れるものは作りたいと思い色々と試行錯誤している最中だったこともあり、なんとか自分たちで結婚式をすることはできないのか?と言うことになりだした。
そうなってくるとびっくりするほどのやる気が出てきた。あの式場見学に行った時の虚無感はどこへ行ったのだろうか?と思えるほどのやる気エネルギーに満ち溢れた気持ち。人の気持ちは面白い。

まずは会場選び。
これは結婚情報誌には載ってない。いや載っていない所でなければ面白くない。
たまたま通勤や遊びに行く時によく通る所にたまに人が集まり何かをしてる怪しげな建物があった。
まずは見学をしに行き、場所貸しをしてもらえるかどうか、それと建物内の見学に行かせてもらった。
音楽をしていたり、ペインティングをしていたりとイベント会場としてレンタルもしていた。
自宅からも近く、友達も比較的に着やすい場所だったのでいいなーと思いつつ、僕ら側のプランがもう少し具体的になってからまた来ることに。
ひと月ほど経ち、話を進めようと思って行ってみると閉まっている。休みなのかな?とも思ったけど人気がない。なんだか嫌な予感がしつつも別日に行っても閉まっている。念のため手紙を挟み帰るも一向に連絡が来ない。一週間ほどして再度行ってみるとその手紙自体も挟まったままだった。前回話しを聞きに言った時に少し近所と揉めているようなことを話していたから何かあったのかもしれない。連絡がつかない以上諦めるしかなかった。

日程もある程度決めてしまったので、ここから再リサーチ。
運よく少し離れたところに竃(かまど)でご飯の炊ける気持ちのいいcafeがあり、程よい中庭スペースもあった。
見学がてら休みにランチをいただきに行き、そのまま打ち合わせ。
歩いてすぐのところに地域のコミュニティスペースもあり、そちらで親族の顔合わせや新婦のゆきちゃんのメイクや着替えを行えることに。
お店の方とも遠いながら縁があり、うまくいく時は話がぐんぐん進む。
場所の広さや環境がわかり、そこからはどんな結婚式にするか、だ。
僕らは式場で働いていたわけでもないから、何をどのように進めるべきかわからない。だけど一つだけ初めから決めていたことがある。それは来た人が来賓のように座ってるだけではなく、来て楽しかったと思ってもらえる結婚式したいということを。

プログラムとして考えたことは、
出席者全員で自分たちのご飯を炊いておにぎりにする。
手持ちぶたさになることが多い親族は味噌汁を作る。(赤味噌と田舎味噌)
乾杯には切って来た竹を使う。
正装ではなく、ピクニックに行くようなラフな服装で。
受付時に造花で作ったコサージュを選んでもらい胸につけてもらう。
ギタレレライブ。

当日までに僕らは友達のアクセサリー屋さんで結婚指輪を自分たちで作ったり、コサージュを作ったり、結婚式の案内や仲のいい後輩にドッキリを仕掛けたりと楽しくなりそうなことを思いつく限りの全て行った。

当日の早朝に手伝ってくれる男性陣と僕は出発し、会社で借りて行ったテントを張ったり、ステージを作ったり音響を設営したりと会場設営をしながら、竹やぶに竹を切りに行ってもらったり、料理の下準備をしてもらったりと忙しかった。ゆきちゃんも色んな準備の後に友達とやって来た。
準備もそこそこに僕らは後ろ髪を惹かれるような思いで着替えのため別会場に。その間、友達たちにはお願いしていたことをしてもらい、時間が来れば開場してもらうように。
着替えも終わり、親族の顔合わせをし、挨拶や一風変わった結婚式をお許しいただくのと楽しんでもらえるようお伝えして先に会場に移ってもらった。

式の開始時刻も近づいてきた最中、乾杯の挨拶をお願いしていたお世話になった方が電車に乗り継ぎの関係で開始時刻位に間に合わない、20分ほど遅れると連絡が入る。
段取りとしては、
新郎新婦入場→人前式(誓いの言葉)→乾杯の挨拶→ご飯の準備になっている。
誓いの言葉もそんなに長くはないし、場を繋ぐことも難しいので僕だけ先に会場に戻り、状況を確認しつつ、来てくれた友達に挨拶をしたり談笑をしたりして場をつなぎ、少し時間を遅らせることに。
そうこうしていると遅れていた方も到着し、式が無事にスタート。
ご飯炊いたり、親族は味噌汁作ったり、みんな大忙し。一通りお腹も満たされた、ギタレレライブを聴いたり話したり、途中激しい夕立と落雷があり、みんなでテントの中に肩を寄せ合いながら入りすごいねと話しながら止むのをまったり、新郎新婦が揃って座ることもなく式が終わるまで僕らはずっと離れ離れで誰よりも忙しかった。
陽も落ち始め、アルコールランプとろうそくしかない中で友達が作ってくれた予定よりだいぶ遅れて鯛の塩釜焼きが登場。
予定外だったけど薪用の木を手渡され、二人での共同作業がケーキ入刀ではなく塩釜を叩き割りに。またその塩釜がとても硬く、叩いても叩いてもなかなか割れない。最後はヒビの入ったところから塩をめくりやっと鯛の登場した時は拍手喝采だった。
そんな楽しい時間も過ぎていき、終わりが近づいて来ているもののよく考えるといつどうやって終わるかを考えていなかった。
街から外れた場所だったので街まで帰るには終電が早い。挨拶もそこそこに各々自主的に終電に合わせて帰っていった。
僕らもみんなを見送った後に片付けをできるところまで終わらせて別々の車で帰宅。なんとも言えない疲労感と、満足感だった。

元はといえば自分たちが従来の形式ばった結婚式が嫌だったことやみんなで手作りの式をしたいといった単純な気持ちからのスタート。そこから自分たちでできることは自分たちで、できないことは友達に手を借りて。商品として並んでいるものの中から選ぶのではなく拙くとも自分たちで作ることを選び、作る事でそれに触れた人達が喜んでくれるという実感、そして自分たちのいいなと思うことを形にしたら喜んでくれる人がたくさんいるんだと嬉しい驚きだった。その喜びが今の仕事につながっていく。

新たに作り始める

仕事をしつつも、生活を大切にしていくことの尊さを理解し始め、結婚式での経験が自分たちの好きなことに共感を得れるとわかり、そのことを打ち出していくことはできないかと考えるようになり始めた。
もちろん今まで通りアートの中で表現することも方法の一つだとは考えたのだけど、アート業界にある空気感に違和感を持つようになってきていたのと、もっと生活に近い部分で、もっと身近な分野で表現するべき事柄なんだと感じた。そして知人のギャラリーをお借りして、僕の今まで培った展示というスキルと当時ゆきちゃんが作っていた小物、ディスプレイ用に自宅で使っていた好きなもの中心にギャラリーに持って行き、好きなものを詰め込んだ空間を作った。
当時は今ほど野外でのイベントやマルシェは少なかった。それに僕らには販売するノウハウも顧客も在庫もない。あるのは好きな雰囲気や世界だけだった。それを表現するのに一番適していたのは展示だった。展示であればアートで経験した経験値があり特に臆する気持ちも出てこなかったしワクワクした。売れるか売れないかわからないし、なんの実績もなくファンもいない僕らの展示にお客さん自体きてくれるかわからないのでどんなものも在庫は作らず展示のためにのみ制作をした。もし欲しいと言ってくれる方がいたらその商品のみ受注生産。まずは僕らのいいと思うものをみてもらう。販売はそれからだと考えた。

「日々のすそわけ」とタイトルをつけ、ぼくらの日常を少し膨らましておすそ分けのように他の人の手に渡ればいいなと想像した。そしてそのコンセプトは今でも大切にしている。

お客さんはゆきちゃんの友達を中心にポツリポツリと来てくれ、商品の注文も思ったよりあった。思ったよりというのは、アートの展示で商品が売れることなんてまずなかったのでそれに比べると注文があった事は僕にとったら驚きだったし、うれしかった。

活動の拠点を求めて

その頃2階建の小さな借家と畑を借りながら暮らしていた。
特に窮屈でもなく、二人で住むにはちょうど。
これからの事を考えてってわけではなかったけど、生活を作ることを考えると自然と田舎で古い家を自分で直し、畑を耕しながら自然豊な場所で暮らしてみたいと思うようになっていた。特に急いでるわけでもないけどもし良い出会いがあればいつでも引っ越そうと考えていた。ちょうどその頃は田舎へ移住の走りの時期。情報はあまり整っておらずいつもお世話してくれてる不動産屋さんに相談して何軒か見に行ったがピンと来なかった。そんな物件探しをしていることをたまたま大学時代の先輩に話すとその先輩の片田舎にある実家の分家が空いてるよ?という話が出て、後日見学に。見学に行った時はまだ中に荷物が入っていたけど街中には車で小一時間もかからないし、畑もある古民家でいろいろできそうだと思いお借りすることになった。それらの片付けや修繕をしていただけることになり、首を長くして待っていると季節は春から秋に変わっていた。その間にゆきちゃんのお腹の中には新しい命が宿っていた。そして引越しのタイミングで勤めていた会社を正社員からバイトにしてもらい、予定がない日は出社していた。最低限の稼ぎを得ながらゆっくり新しい場所で何が向いてて自分たちには何ができるかを考えていこうと思っていた。

そして引越しを済ませて新たな生活。自分たちの暮らしを自分たちで作れる喜び。何をしよう、何から始めよう、どう暮らそう、いつだってお金はないけど希望はある。それが僕の強みなのかもしれない。
まずはメインに使う畳の部屋をフローリングに替える。材料が届いてから張り出す前に一人でこつこつと着色オイルを塗っておき、張り替え自体は友達と1日で終わらせれた。台所は土間になってたので半分を板間にし、つっかけを履かなくても家事ができるようにした。他にも腐りかけた部分を交換したり畑に水が溜まるようになってしまってたので水の通り道を整備などもして生活を作る実感を得ていた。
その年は近年稀に見る大雪が降った。お風呂は離れの五右衛門風呂。長靴履いてダウンジャケットを着て膝丈まである雪のをかき分けながら薪を焚いてお湯を沸かした五右衛門風呂の温かさは今でも覚えている。
少しずつ住みやすいように工夫をして少しだけ生活に慣れが出てきた頃、大家さんとの関係の雲行きが怪しくなった。何かと僕らがすることに口を出すようになってきた。僕は以前から作品制作のためにアトリエを借りていた。引っ越す前も引っ越した後も同じくらいの距離にあって引っ越した後も借りていたけど収入も減り、いずれ全ての機能をこの古民家に移したいと考えていたのでアトリエの引越し準備をすると共に五右衛門風呂のある離れの納屋の中二階を整理して簡単な作業場にしようとしていた。ただただ投げ入れられた不要なダンボールやぐしゃぐしゃに置かれた木材、全て処分はせず綺麗に整頓して掃除をし水拭きをすると山小屋の屋根裏部屋の秘密基地のようなかっこいい6畳ほどのスペースが生まれた。ここを作業スペースにしようとウキウキしていたが、どうもそれが大家さんは気に入らなかったようなのだ。そこは触っていいとは言ってない!と怒りはじめたのだ。
僕としてはその逆で触ってはダメだと聞いてなかったし、家賃だって滞納せずに払ってる。そもそも引越せるように母屋の中だけは辛うじて物を無くしましたってくらいで家の周りには長年放置されたゴミがたくさんあった。それはあんたらが綺麗にしたらいいと言われていたので腑に落ちない。それでも勝手に使うなと言われてしまってはあのかっこいいスペースは使えない。なんだかモヤモヤした。
それからことあるごとに僕らのすることに色々意見を言うようになってきた。あれはするな、これはやれ、あれは使うな、ここは綺麗にしとけ、あたかも大家さんの分家を守るための使用人のように。残念ながら僕らはそんな気持ちで引越してきたわけではなく、自分たちの理想の暮らしを求めてやってきた。それが家賃を払って使用人のような扱いをされては意味がない。引っ越して半年ほどで僕らはそこを出る決意をした。決意したけど悔しくて悔しくて夜道を散歩をしながら一人、涙があふれ出た。

引越しを決意しても次の引越し先のあてがない。以前住んでたところは新たな人が住んでるし、他の古民家を探すのもなんか違う気がする。かと言って街中にも住みたくないし。そんなことを考えてるとふと頭に母親の実家の離れ、今のSOSOの建物が頭に浮かんだ。
僕は高校までこの街で生まれ育った。この建物は僕が母と帰省するたびにお化け屋敷のような物置屋敷として30年以上放置されていた。借地に立ってるため廃墟となれば解体して更地にして返却をしないといけない建物。とても立派だし壊すくらいなら使いたいと思った。縁のない人の家を家賃を払って快適にするくらいなら自分の祖先が使って来た場所を直して引き継ぐ方がスマートだとも考えた。ただ僕は生まれ故郷でもあるこの地の人付き合いの距離がとても嫌だった。それは僕自身にもその素養があって、そんな昔ながらの癖のようなものが自分自身に現れてる時とても嫌な気持ちになる。だからそれと似た状態の人を見るとまるで自分を見ているかのような気分になるので自己嫌悪に陥るから。だから大学のために県外に出てからは帰省や用事以外では帰ってこないつもりだった。それとゆきちゃんは全く知り合いのいない土地。そして出産がある。なるべく心の負担が少ない方がいいんじゃないかと思うけど何どうすればいいのかわからなくなった。結果から言えば愛知に引っ越すことにした。それは僕らの強い意思ではなく意図せず強い流れに流されてしまいたまたまそこにたどり着いてしまったように。

引っ越しの旨を大家さんに伝え1時間以上罵声を浴びせられた。もちろんこちらだけに非がある話ではないから反論だってできたし、逆に罵声を浴びせることだってできたと思う。けど僕らは争いたいわけでも言い分を聞いてもらいたいわけでもない。ただただこの人たちから離れたかったし、罵声を浴びせることで同じ土俵に上がることが一番したくないことだった。
早々に引越しの段取りを整え、雪もだいぶ少なくなったころ友人にお願いをして早朝から夜中にかけて2往復の引越しを済ませた。
深夜に荷物がパンパンに積まれた車で愛知に帰る途中、二人で遅い夕食に食べた牛丼は言葉に表せれない感情とやっと離れられたことの安心感が混ざってなんとも言えない味だった。

改修

soso昔

愛知に帰ってきた。
ひとまずは僕の実家で両親と同居。高校時代から一人暮らしに憧れて大学時代から10数年自分だけの居場所で自分のペースで暮らして来たので帰省くらいの数日であればまだ大丈夫だけど、長い同居は落ち着かない。もちろん両親もたくさん気を使ってくれてたし、それに僕らのことを理解しようとしてくれてたくさん協力をしてくれていた。だけど自分たちの生活を自分たちで作ることが喜びの僕らには仮暮らしの状態はあたかも強制的な冬眠を強いられてるようなもので、やはり僕らは自分たちの生活を大切にしなきゃいけないんだと改めて気づいた。
帰ってきてから早々に改修の話が進んでいった、正確にいうと帰って来ることが決まってから。たまたまその時に僕の実家は兄夫婦と両親の住む新居を建てていた。そこに入ってくれてる大工さんに改修してもらうことになった。素人目には少し直したらあとはなんとかなるんじゃないかな?なんて気楽に考えていたけど結構な工事になっていった。

いろんな親族の記憶を頼りに調べると大正6年に宮大工だった4代前の祖父が建て、改修の段階で築96年くらいは経っていた。そして僕の祖父が一度改装を数奇屋っぽくしたそうだ。建てた当初は町内の今でいう公民館のような集会所の役目として消防団の集会や近所の方の結婚式場などに使われ、祖父が改装してからは事業をしていた祖父の接待場所として夜な夜な宴会や麻雀などをしていたらしい。そして僕が物心ついた時には色んな不用品置き場と化し、徐々に朽ち初めていた。

古く趣もあるこの家の改修にあたり、とにかく残せるものは残して欲しい。それが僕らが出した希望。もちろんちょっとの地震や台風などで倒れてしまってはいけないので大工さんの経験をもとに判断を委ね、どうするかはその場その場で決めていくことに。
大工さんに入ってもらう前に中の荷物を全部無くして空の状態にしながらできる限りの掃除を家族総出行った。
引っ越して来た僕はどこかで勤めてるわけでもバイトに行くわけでもないので毎日朝から改修現場に来ては大工さんの仕事を羨望の眼差しで眺めながら休憩の度にコーヒーを淹れて同席して色んな疑問に質問しながら引き渡しの日まで毎日過ごした。この経験が少なからず今手掛けてるWeekEnd工務店に影響している。
改修が始まる。とにかく使えない部分を撤去し始める。どんどんどんどん崩されて行く。一つ壁を崩すとその隣の柱と壁も使えないことが分かり壊される。そしてまたその隣も。できる限り残してもらいたい僕らとしてはどんどん壊されていってしまって心配になってくる。1週間もしないうちに北側の壁と柱、西側の壁と柱に廊下と二階以外の床全面が撤去された。作業開始直後はまだ僕と大工さんとの距離はあり、きっと大工さんからすれば元々施工していた現場の施主の息子くらいにしか思われてなかっただろうし、僕自身も僕らのいいなと思う感覚が伝わってない不安感があった。だから撤去されて行く様を見ていると魅力的な部分がどんどん失われて行くような気分で心が重かった。
そんな気持ちとは関係なく、作業は進む。撤去後は基礎部分を改善したり、新しい柱を入れてもらうタイミングでバランスを見ながら多少の耐震補強が入る。構造体の部分はお任せしてたけど、間取りや窓、キッチンや電気の配線などなど細かい部分は未定のまま改修に入ったのでその全てを改修中の現場で大工さんに聞かれその場で答える即興アドリブライブのような状態で決めていった。また外装も内装も下地のみの状態で仕上げは住んでからゆっくり自分でやることにしてたけど、大工さんとしては中途半端に現場を終わらせるようで落ち着かなと何度も苦笑いされた。

soso改修2

話は変わり、改修し始めて1週間目くらいに表から知らないおじいさんが入ってきた。見ず知らずのおじいさんがここを眺めながら懐かしいだのすごい工事をしてるだの言いながらここが僕の母の実家だと伝えると「あの子の息子かー」「あんたのおじいさんには世話になった」などと言われるけど僕は一切知らない。母にそのことを伝えるとどうやら僕の祖父が事業をしていた時に一緒に働いてくださってた方で近藤さんといわれる方だった。近所にお住まいで自分もよく使っていた建物が工事していたので気になって見に来たのだそうだ。あくる日にもその次の日も近藤さんは作業のためにここに誰かがいる日はほぼ毎日やって来て作業を眺めたり話をしに来られ、ある日急に「うなぎを食べに行こう」と誘われ、いいのかな?と思いながら行くことに。好きなものをご馳走してくれた。僕の祖父にお世話になったことやその事業がうまくいかなくなった時のこと、近藤さん自体は食べるのが好きだけど高齢のため(当時93歳)車に乗れないから食べたいものが食べにいけないから車で乗せて行って欲しいなど、素性がわかるにつれてなんだか僕の生まれる前に他界した祖父と話してるような感覚になった。おじいさんはその後1年ほど頻繁に遊びにきていたけど高齢のため施設に入られた。こちらに引っ越しからずっと落ち着かない日々に、近藤さんは僕らにとっては一瞬ホッさせてくれる存在だった。僕らの始める仕事についても頼んでないけど一緒に考えてくれて、それではうまくいかんぞと心配してくれた。SOSOを初めて数年後あるイベントで出店した帰りに忙しく売り上げもよかった。思い切って近藤さんと出会って初めて行った鰻屋さんに行って食べた時は「ああ、自分でこのお店に来れたんだ」じーんと胸が熱くなった。

1ヶ月半ほどかかった改修も大詰めに。このころには大工さんとの距離も近くなり他業種の業者さんが入られた。ほとんど図面らしい図面もないので僕は現場に居て各業者さんから仕上げ方や細かい位置などを聞かれ答えるという状態。それでも傾きかけた家は真新しい柱が入り、補強も兼ねた壁が新設され、天井の一部は剥ぎ取られ梁がむき出しになり、土間スペースもできた。壊し出した時はどうなるのかと心配になったけど、出来上がってみるといい空間になったと思える。ここからは生活をしながらお店がオープンできるように準備と、初めての出産が控えてた。

新生活そして出産

第一弾の改修は無事に終わり大工さんは僕の実家の新築施工に戻っていった。次は実家の施工が終わって落ち着いたころにトイレとお風呂を作ってもらう予定。それまで僕らは叔母たちが使ってるトイレとお風呂を共同で使うことに。それでも僕たちはこの古くて新しいおうちで自分たちの生活を始めれることが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
移り住んでからすぐに京都で展示が入っており、その頃には少しは在庫も制作して今の状態に近い感じになってので制作に励んでいた。
展示を終えて少しほっとした頃に出産がやってきた。
もともとゆきちゃんは妊娠初期から助産院での出産を望んでいたけど、近所には産婦人科しかなく、古民家に移り住んだ時もそこの近くには産婦人科すらなかったので一番近い山を1つ超えたところの一番近い産婦人科に通っていた。そしてこの一宮は不思議なことに助産院が多かった。友達もいない土地に来たゆきちゃんにとっては唯一よかったことかもしれない。
深夜に陣痛らしきものがきて、出産後はお風呂に入れないからと急いでシャワーを浴びて助産院に。助産院のベットに横になり状況を診てもらうと今晩には出てこないと思うよとベテランならではの説得力のある言葉で説明を受け、旦那さんは明日もあるし寝といた方がいいからと別部屋にあるベットで横になった。ゆきちゃんの悲痛な声を聞きながらも意外とあっさり寝れた自分にびっくりした。
僕らはお産の関して助産院で産みたいということと性別は生まれてくるときのお楽しみくらいの話をしてたくらいで、それ以外は一切なかった。なので立ち会うかどうかも決めてなかったし、ある病院では事前に申請がないと立ち会えないとも聞いてたのでそんなもんだと思ってた。そう、僕はできるのなら立ち会いたくなかった。だって痛そうなゆきちゃんを見たくないから。そんなことも思いながらもよくよく考えれば僕は出産を放置してまで行くところがない。まあ分娩室みたいな所に入らなければいいかと思いながら押し寄せては引いていくゆきちゃんの痛みに寄り添っていた。
深夜に来てから痛みと戦いながら気づけばもう夕方。なかなか出てこようとしてくれない。それでも少しずつ少しずつ産道が広がり、夜になる頃には出産準備に入っていた。もうここまでくると立ち会いたいとか立ち会いたくないではなく早く無事に出産が終わって欲しい、ゆきちゃんを痛みから解放させてあげたいという思いだけ。
必死に必死にゆきちゃんも赤ちゃんも頑張って夜の11時ごろ無事に自然分娩で産まれてきてくれた。その瞬間、自分がどんな感情で何に対して泣いてるのかわからないけどボロボロ涙をこぼした。
そんな僕にすっと産婆さんがへその緒を切ってと言ってハサミを渡してくれた。これまでこのへその緒を通して大きくなってきたけれど、これを切ることで赤ちゃんはお母さんと離れ一人の人間になる。そんなことを思うと急に自分が親になったことを自覚して緊張しながらハサミをいれた。
始めは何をしたらいいかわからなかった出産。男性のできることなんて本当にほとんどなくてただただ奥さんの横にいて寄り添うそれしかなかった。それしかないからこそ、それだけでもやるべきだし寄り添い続けれたからこそ感じれたものはある。寄り添うことは人生においてとても重要なこと。そんなことを出産を通して教えてもらえた。

退院後は我が家で過ごし、ゆきちゃんは自分のことと赤ちゃんのこと以外は何もせずにそれ以外は僕が担当。毎日掃除洗濯食事をしながら自分で仕上げるために途中で終わってもらった外壁と内装の仕上げをしていった。
外壁も内装のかべも、もともとこの家で使われていて不要になったものを使った。外壁は畳の下に敷いてあって今回の改修で不要になった板を貼り、内装の壁は壊した土壁の土を取っておき、固まっているものを粉々にして水と練り合わしペースト状にしたものを塗っていった。これがなかなか大変で家事などをしながらでは1日2,3枚が限界だったけど、塗られた壁が徐々に乾いていくさまは夕日が沈むような美しさがあり、生活と仕事が混同しながら過ぎていく日々に充実感を得ていた。

SOSO

お店の名前は自分で壁を塗ってる時から色々考えていたけどなかなかピンと来るものがなかった。どんな候補が上がったのかすら忘れるくらいピンとこない名前しかでなかった。ある時、ゆきちゃんが前に読んでた「日日是好日」本の中から「楚々として」と言う言葉が気に入っていると話してくれ、そこから「SOSO」に決めた。

僕らは当初から街中に物件を借りてまでお店を始めたいとは思っていなかった。軒先や玄関先だけの小さなスペースで家の一部がお店ならいいのかもとある時から考えるようになり、この家にやってきて改修してる段階では今のようなスタイルで家のプライベートスペースとお店の両方をみてもらいたかった。
もともと自分たちの生活を出来る限り自分たちで作ることをこれまでもこれからも目標にしていて、僕らが生きていること自体が商品と共に作品だと感じてるし感じてもらいたい。だから「生きること」「暮らすこと」「仕事」「家事」「育児」これらのことが同じ場所にあり、比較する対象ではなく同列であることが大切だと考えているので仕事とプライベートのon/offの切り替えはあまり重要に考えていなかったし、実際切り離さない方が僕らの感覚としてはとてもやりやすかった。
今でこそ言葉にして書くことができるけど、SOSOを始める時にはここまではっきりとはわかってなかった。それでも何となく肌感覚でお店部分と住居部分の両方を解放して分け隔てなくみてもらうことはとても重要だと思っていた。
僕らの中にはそんな感じで根拠のない自信があった。
門は常に閉めてインターフォンを押してもらって迎えに行くことや看板も簡素なものをオープン時に置くだけ。広告らしい広告もせず僕らの価値観に合う人が見つけてくれればいい。そうじゃない人は来なくてもいいか。いつか全国からいや海外からも来たいと思える場所にしたいと希望に胸を膨らまし始めたSOSOは2011年11月7日にオープンした。

これが僕が学生時代からSOSOを始めるまでの物語。
そして今もこれからも続く物語。

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