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sosoの素(50)

しなやかに

僕は築100年を越す古い家に住んでいる。それはたまたまの巡り合わせでそうなっただけでそれ自体が特別と考えてると言うよりは何となくここに収まった気分。
sosoを改装して住み始めた頃、受け継いだこの家を大切にしなくてはと考えていた。なるべく傷はつけないように、痛まないようにと心がけていた。少しでも長く良い状態をキープしていたかった。古いものも多く物置に残っていたからそれも活用したいと火鉢を出して暖をとったりもしたけど古い家の寒さはかなり厳しかった。

この仕事をし始めて、服装のことをよく迷った。
自然素材のものの方がいいなと思い、麻や綿のものでシンプルなものをと心がけていた。それは誰かに見られても何ともおもわれないような無難な選択で何となく安心を得られることだった。

今、我が家では猫のたびちゃんを飼っている。ずっと犬はだった僕は猫は気まぐれだし家を痛めるから嫌だなと思っていたけど、今ではたびちゃんにメロメロ。可愛くて仕方がない。
服も綿や麻など素材での選択ではなく、自分が着たいかどうかで選ぶようになってきた。ナイロンやポリエステルも最近ではよく着る。近年の猛暑には綿ではベタついて不快感が強くつっぱったりもするので仕事もしにくいし、冬場は着込むと動きにくいので風を通さない薄いシャカシャカした服を好んで着ている。

気に入ったものほどよく割れたり破れたり壊れたりする。それはそうじゃないものに比べたらよく使うから。それに比べてあんまり気に入ってないのよねーってものはいつまでたっても壊れずに視界に入るところに居座っている。心の中で早く壊れないかな?なんて思いながらそれを眺めていたりする自分が嫌な奴だなーと嫌悪感を抱いたり。勝手な話だね。

昔はよく「こうでならなければならない」と強く思っていた。真面目に働かなければ、人に優しくしなければ、ものを大切にしなければ、挙げ出したらたくさん出てくる。とても立派で良いことではあるけど、生きるってそればっかりではやっていけない。
サボって食べた甘いものは普段より5倍くらい美味しく感じるし、人のことに構ってられない時もあるし、大切にしすぎるあまり使う機会がなくて使えなかったり。
健康のためなら死ねるみたいことかな。そういった人の矛盾こそが僕は愛おしく、それを許せる心を持ててることが優しく柔らかい心地いいものだなーと思うのです。

形あるものはいずれなくなる。家だって文化財じゃないんだから今を生きてる僕らが生き生きと心地よく使ってればそれでいいし、僕が骨の髄まで楽しんだのなら家の寿命と考えたっていい。それを子供達が引き継ぎたければ引き継げばいいし、壊したって構わない。器や服も壊れるほど使えたんなら金継ぎや当て物をして直しったっていいけど、新しいものと出会う機会をもらえたと思って処分することだって悪いことじゃないはず。

今を生きてる僕らが穏やかに楽しく平和に暮らして人生を謳歌することの方が家を残したり理念を守るよりも多くの良い感情のバトンを渡せていけるんじゃないかな?と40代として思うんです。

死ぬ間際も同じようなこと思てたらきっと幸せな人生だったとふりかえれるだろうねー。


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