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sosoの素(103)

どこからどの風景をみるか

「そうは問屋が卸さない」て言葉が昔からなぜか好き。

自分なりに考えて仮説を立て、実験しながら実証し反省をしてまた考える。
そんな繰り返しの日々をじっくり味わいながら進んでいくのが僕の性分には合ってて一番楽しく早く進む。
そんな風に思えるまでには色々あって、社会に出てから一人前の顔だけできるようになって身勝手な視点で何かあれば揚げ足を取るために重箱の隅を突くような否定的な意見ばかり持っていた。
その世間知らずの行く末はもしかしたら過激な意見ばかりで周りの無能さを辛辣にそして過激に指摘することでさも何もしていない自分が優秀な人間だと言わんばかりの駄々っ子のような人物かもしれない。
ネットの世界にはよく見受けられること。
そんな危険性を要素を含んだ状態からだいぶ更生できてよかったという安心感と、いつそんな迷惑な存在に戻ってしまうかもしれないという怖さを抱えることでバランスを取っている。

仕事でもなんでも予定を立てて実行する場合いつも大まかな状態にしている。
これは性格的なものも大きいと思うけど、きっちり決めてそのスケジュールで進めていくと予定が遂行できたかどうかが重要になってきて自分の中での合格ラインが内容ではなくて予定通りかどうかになってしまう。
旅行でスケジュールを決めて時間通りにくまなく回れなければ失敗した気分になって、旅行そのものを楽しめてないあれです。
旅行のハプニングを楽しむように仕事も楽しんでいきたく、極力きっちり決めずにその場の流れに身をまかせながら柔軟に対応することが一番楽しく内容も濃くなる。

先日、理不尽な理由で急に大きな薪棚を動かさないと行けなくなった。
昔の僕ならその理不尽さに憤慨して喧嘩のような状態になっていたかもしれないけど、それはそれで尾を引くから心軽くささっと最短で対応した。
動かすにあたり、移動先の場所を綺麗にしとかないとと思って草刈りなどを先にやっていた時にひょんなことから前から気になっていた空き家状態になってる場所を見せてもらえることになった。
住まれていたおばあちゃんが施設に入られ、この半年以上離れて暮らしてる親族の方が一ヶ月に2,3度片付けにきていた。いつも作業だけしてさっと帰っちゃってるので関わることがなかったけどこの日はたまたま大物家具を処分するのに大きく戸を開いていてあちらから話しかけてくれた。
お互いの話を軽くしながら中を見せてもらって、我が家の猫を拾わせてくれたことや僕らの作業場所や自宅も見に来てもらった。
最後の方に相手の方が「今日はとても嬉しかった」と言ってくださり、僕らは何かしたわけでもないけど片付けにくる場所でたわいもないことや自分たちの話を聞いてくれる人がいることが嬉しかったそうだ。
もしかしたらその場所で何かできるかもしれないと僕らもこれまでとは違う未来を想像したのは楽しい時間だった。

予定をきっちり立てても予定外のことが起きて振り回されることもたくさんある。それと同時に不本意ながらもやらざるを得ない状況を自分ごとにして積極的に動くことで不意に嬉しいことだってやってくる。きっと怒って不貞腐れて嫌々草刈りをしていたら話をしようとさえ思ってもらえなかったんだと思う。
どちらもやることできることはほぼ同じ内容だけど、それをどんな心持ちで誰に向けてやるかによって見えてくる風景は全く違うものになってくる。
誰かを困らせて愉快な気持ちになろうとする人に対して、ぶつかるんじゃなくてひらりとかわして楽しんじゃうとこちらは愉快時間になる。
「そうは問屋が卸さない」もいろんな角度からいろんな視点で見ると社会の見え方も少し気楽になったいいのです。

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