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sosoの素(105)

いいことと悪いこと半分ずつならラッキーだと思うようにしている。
悪いことがばかり続くのも気が滅入るけど、いいことばかりが続くのも浮き足だってしまうので用心。

悪いことやモヤモヤすることが続く時に僕は「いつかなんとかなるか」と無理に解決しないように静かに程よい距離で付き合っている。
昔はモヤモヤすることが近くにあると苦しいから早く解決したくて助けてーと叫ぶような気持ちで自分の価値観をアピールしたりわかって欲しくて自分の理論を語ってなんとかしようとしていた。
だがそれらは痛いの痛いの飛んで行けーと同じような効果くらいしかなく、時に新たな衝突を生んで問題が大きくなることもしばしば。
大きく動いて力技でうまく行くこともあるけど、全く遺恨を残さず晴れ晴れとした状態になることは難しいし、動いたことで余計に問題が複雑に大きくなることもある。
そんな経験から自分のできる範囲のこと以外では静かに付き合うことが今の僕にはちょうどいい。

いいこと、嬉しいことが続いていると気持ちがふわふわ夢見心地にのようになる。それはそれで気持ちよく心地いいのでこのまま続いて欲しいと思うのだけども、ふわふわと地に足がついてない状態で心ここにあらずになり、楽観的な気分になりやすく冷静な判断ができなくなってしまってることもある。
そんな状態で気が緩み普段起きないような事故が起きてしまうことも珍しい話じゃない。

できることなら日々を淡々と重ねていきたい。
それでも凪のような何もなく毎日が流れて行くだけなのは違った苦しさがあるのかもしれない。
悪いことが続いた時、なんで自分ばかりこんな目に会うんだろうといじける気持ちになるし、嬉しいことが続いてなんて幸せなんだろうと思う日があることで呼吸するような気持ちの新陳代謝が行われる。

苦しい時に苦しいことばかりに目を向ければ深みにハマるけど、普段はなんとも思わない当たり前のこと、例えば晩御飯を無事に食べれて1日が何もなくすぎるようなことがとてもありがたく思えたり、嬉しい時にはあんなに苦しかった時間があったからこの喜びはやってきたんだと過去の苦しみが自分の成長や栄養になってる実感を得れた時に苦しかった時間も愛おしく感じるものなんだと思う。

先日僕の中でずっと気を揉んで考えるたびに不安で重い気持ちになっていた出来事が大きな衝撃の後に奇跡のような流れで解決に向かっていった。
詰まっていてせき止められていた澱んだものが一気に流れ出たように。
その後数日に渡ってあれはなんだったんだと現実なのか幻なのかわからない浮遊感の中で生活をしていた。
少し経って日常が戻ってきて制作をしている時に自分の中での大きな変化に気がついた。
いつものように制作していても全く疲れない。
あれだけ毎日疲れていたのに、20代にでも戻ったかのようなハツラツ具合なのです。
年齢と共に疲れが溜まりやすくなる。これ自体は紛れもない事実だとは思う。だけど、肉体的に疲労が溜まっているのかはたまた精神の慢性的な疲れなのか混同してしまってるのかもしれない。
歳を重ねるにつれてやっかいな心配事は複雑化の一途。それによって精神が疲弊して肉体にも疲れをきたしてるいることがほとんどなのかもしれない。

生きているとその場面その場面だけが全てのように感じてしまう。
ある時は絶望的だしある時は有頂天だし。
その全ては地続きで長い目で流れがあると思いながら観察するとまあまあな人生なんじゃないかと思える。

過剰な期待をせずに、プラスマイナス0でコンマ幾つプラスをコツコツと重ねていけるといいんだろうね。

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