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sosoの素(52)

おじさんって

いやー、忙しかった。
まだまだ忙しいし、これからもやらないといけないことがたくさんあるけど、大きな山場は越したので少しホッとしてる。

体力も気力も前ほどは堪えきれないなーと感じる今日この頃、やっぱり僕は立派な中年である。
そうおじさんなのです。

おじさんはなぜかその存在事態が煙たがられ、喜ばれることはまずない。
自分がおじさんになってくるとこの無差別に喜ばれない存在になっていくことがなんだか悲しいなと思うことも多い。
とはいえ、おじさんが多い場所に行くと面倒臭いなと思うこともやっぱり多い。
自虐ネタや下ネタ、不平不満に承認欲求がある割にコミニュケーションが円滑でない。
それらは若い時からあったものだけど時間と共に妙な発酵と爽やかさがなくなり酸味やえぐみが強くなってしまってるように見える。
僕も含め、当の本人たちは10-20代のころと変わらない少年のような心で楽しんでるだけだったりするんだけど、見てくれが少年ではないので周りは引いてしまってるのかもしれない。

おじさんという存在自体不要かといえばそうじゃないなと思ってて(願望も入ってるかも)周りもおじさん本人もその活用方法が見つけられてないような感じなのかな?とよく思う。

男はこうあるべきだなんてことを言ってると時代錯誤になってくからそんな言い方はしないけど、僕自身は可愛げがあって役に立つ人でありたいなーと常々思ってて、立ち振る舞いに迷ったり人とのやりとりの中でモヤモヤした時に自分の感情を一旦横に置いといて自分には何ができるんだろうと考えるようにしている。

おじさんになってくるとこれまでの人生の中での自分なりの結論をそれぞれ持ってて、それに沿って物事を考え決めつけてしまいたくなる。それが間違いでもないし、正しいわけでもないんだけど、視野がどんどん狭くなってしまって自分以外の意見に寛容になれなくなる気持ちもよくわかる。自分にそんな部分を感じる時に少し悲しい気持ちにもなるんです。

それらの一番の要因は自分の気持ちを伝えることや相手の気持ちを聞くこと、また答えありきの議論じゃなくて不確定で不安定な状況を楽しみ心が不足しているんじゃないかと思うのです。それはおじさんにとってとても面倒なことでストレスの溜まりやすいことでもあるから余計に難しい。
ここにあるのは俗にいう男のプライド、メンツ、意地そんなところだと思うんだけど、それをどれだけなくして気持ちや気分をオープンにして知らないことを知らない、わからないことをわからない、ごめんね、ありがとうでかなりのことが解決するなーと思うんだけどそれが頭でわかっててもできないのがおじさんの苦しいところ。

立派で威厳がなくても、見栄を張らずに単純にごめんね、知らなかった、教えてくれてありがとう、おもしろいねって自分の至らなさを認めて相手のことを理解しようとするだけど煙たがられずに可愛げのあるおじさんになっていけるんじゃないだろうか。

みんなで可愛げのあるおじさんになって周りの人にちやほやされてにこにこしてたらあの人いい人だってなって周りがほっとかないからいじける暇なんてなくなっちゃう。
そんなおじさんが世の中に一人でも多くなるように僕もにこにこしとこっと。

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