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新選組の走馬灯ー舞台刀剣乱舞心伝つけたり奇譚の走馬灯感想@配信編

去年の夏に新作の発表がされてから、
この日をずっと待っていた。
私の初期刀は加州清光だったからだ。
年明けからチケットの申込みをするだけでも大変だった。
有給を取るつもりでいたので、全日、全公演すべて6回(Blu-ray封入、有料ファンサイト、ゲーム先行、専用クレカ、プレリク、一般)申し込み、
血のにじむ苦闘の末に1枚だけ手に入れたチケットは月末の公演だ。
なのでこの記事は配信の感想になる。
配信を見て思ったことを書こうと思うので、
お時間ある方はどうぞ

初見では内容を汲みきれなかった


ものすごく正直に言うと、初見では内容を把握しきれなかったと感じた。
その理由について考えてみた。
しかしどの理由も、言い替えれば今作の良さでもある。
結論から言えば、内容を汲みきれなかったのは私の側の問題だと感じた。

1)気合が入り過ぎた

1年間も指折り数えて楽しみにしていると、
自分が出演するでもないのに、
初日が近づくにつれて謎に緊張するようになった。
初日の前日ともなると何も手につかない勢いだったが、
こういう状態でいざ配信を観ると
「目まぐるしくセリフ、場面、殺陣が変わる」進行にけっこう初めのうちにいっぱいいっぱいになってしまい、
作り込まれ、考え込まれた作風が特徴の刀ステだが、
それが完全に裏目に出てしまうことになった。

2)必要な予備知識が多い

また、予備知識の浅さが仇になったとも思う。
刀剣乱舞にハマったおかげでなんとか高校日本史くらいは勉強し直したワケだが、
とはいえ「歴史ファン」といえるレベルにはまだ遠く、
「有名歴史フィクション」を複数履修していることが前提の創作物を楽しむほどには至れていない。
なので現存するすべての「新選組」の解釈を内包した上で、なおかつ最先端になろうとしている今作の高い意識に知識が追いついていない、と感じた。

とはいえ、「歴史ファン」にはなれていなくとも、
現代での新選組人気は一人の作家のフィクション作品の流行によるらしい、ということは当然耳に入っていた(司馬遼太郎)。
実際に高校日本史を勉強した際にも、
あんなに有名な新選組の登場も活躍も、あまりにサラッと扱われていて驚いたものだ。
こうしたフィクションが立役者である「新選組」という題材を扱うのに、
以下のような特色や難しさがあったはずだ。

・「人気がある」=熱心なファンがいる
・「諸説ある」=真偽の確かめようのないエピソードが多数ある
・「司馬遼太郎の小説が流行ったことで有名になった」=史実と違うのに、という冷笑的な視線がある

このような状況にある「新選組」という題材を今作はうまーーく調理したものだと感心するしかなかった。
でも、歴史に疎く、更に謎にガチガチに緊張していた者にはその高尚な作り込みを一度には理解しきれなかったと感じた。
また「刀剣乱舞」というゲーム自体のやり込みの不足も感じた。

3)イケメンを見るとIQが下がる問題

また、これは2.5次元にどハマりして気がついたことなのだが、
舞台上の役者にガチ恋にも似たラブを抱いて眺めていると、知能が下がる。
全然関係ない話で恐縮だが、
ある時、ネプリーグに2.5次元代表で出ていた荒牧慶彦なり佐藤流司なりを見ていたのだが、
カッコいい〜〜❤️と思いながらニコニコして見ていた。
クイズの出題の時間になり、オーストラリアのシドニーオペラハウスの写真が映し出されて「これはどこでしょう!?」という問題があった。
平時であれば「シドニーやろ」とすぐにわかりそうなものなのだが、この時の私はホワ〜〜としており、ここがどこなのかまったく思い浮かばなかった。
え〜白い〜、トゲトゲしてるね〜🥺みたいな……シドニーのオペラハウスなのに……
そういう自分に驚いて、その時初めて、
イケメンを見ると知能が下がるんだな、ということに気がついた。
体感、イケメンを見てホワ〜となっていると、脳の6〜8割くらいが「カッコいい〜❤️」という感情に支配されて平時の動きができなくなる気がする。
私がスケベだからかもしれないが……
もともとそんなに頭が良くないと大変だ。
当然、本作の出演者は刀剣男士をはじめ「歴史上の人物」に至るまでがバキバキのイケメンだった。
これではスケベな人間には複雑な物語を咀嚼する思考力は残らない。

カンパニーの雰囲気の良さは伝わった


内容にいまひとつついていけないまま最後まで視聴したが、
それでも「あ〜、この作品好きだな」と感じた。
内容が今ひとつよくわからない舞台に対して「なんか好きだな」と感じたのはどういうことかというと、
この作品が「感情」とか「心」を重んじた内容であるということは理解できたらからだと思う。
出演者のTwitter(X)、インタビューなどのコメントで「みんなで、この作品を届けたいです!」とか「(座組の)熱量がすごい」みたいな発言があって、
カンパニーの雰囲気がすごくいいらしいことも伝わってきた。
雰囲気のいいカンパニーから、「心」を重んじたメッセージを受け取るということは、すべてを読み取れなかったとしても当然いい体験であった。

5回見て考えたこと


配信を購入すると自由に視聴できる期間があるので、
作業のかたわら流しっぱなしにしたり、
ご飯を食べながら見たりして5回くらいは見ただろうか。
何回か見ていく中で、考えたことをまとめたい。

まず、今作のポイントは「刀剣男士の自己承認」にあると感じた。

これは「人間の幸福とは何か」TRUMPシリーズなどを通して人生・生命・幸福・不幸についてずっと考えている末満健一のような脚本家が、
「刀剣男士の幸福とは何か」を熟慮した末の脚本だ。

それも、
これまでに何冊出たんだよ、というあまたのオタクによる刀剣乱舞の同人誌をはじめ、
公式・非公式合わせて無数に存在している「刀剣乱舞の物語」に影響を受け、また配慮もしながら、
9年もの間熟慮をし、演劇を通して向き合った末に出した結論だ。

なので、私のようなニワカにはやはり汲みきれない部分があるように思う。思考の深さの面でも、熱量の面でも。

でも、今作からあえて「刀剣男士の幸福とは何か」を、読み取るとすれば、
それは「刀剣男士が自己を承認できること」なのではないだろうか。

刀剣男士の自己承認と成長の物語が是とされていることは、ゲーム本編の「修行」と「手紙」のシステムからも読み取れる。

では、どうすれば刀剣男士は自己を承認できるのだろう。

それはやはり、自分のルーツである「元(もと)、主(あるじ)」と向き合うことだと今作は、というか末満健一はシリーズを通して考えていると思う。し、私もそう思う。

でも、じゃあ、たとえば「新選組」みたいに、
存在自体が誇張されたフィクションで人気になり、
そのことで広く認知されるようになった場合はどうなのだろう。

そうした誇張されたエピソードの影響を受けてまさに「刀剣乱舞」というゲームにも「新選組の刀」というキャラクターが存在している。

そうした真偽の不確かなエピソードに立脚して誕生したゲームキャラこそが、
本作にも主演した刀剣男士たちだ。

彼ら新選組の刀がタイムトラベルをして、過去の時代に遡って、本物の持ち主と出会ったら。
その時、彼らが自分自身を認める過程にはどういった心の動きがあるのだろう。

今となっては確かめようもない情報しか手に入れることができない、現代を生きる私たちにその物語を想像することは可能なのだろうか。

このきわめて難しい状況下で、
今作がお出ししてきたのが「走馬灯」というアイデアだ。

「走馬灯」とは人間が死ぬ間際に見るとされる、その人の過去の人生にまつわる幻覚だ。
今作はこの「走馬灯」の中で、
刀剣男士と元の持ち主を出会わせることにしたのだ。

私は、今作の舞台は全体が正史から外れ放棄された世界であるのと同時に「新選組」という「組織」の走馬灯だったのではないかと感じた。
それを前提に話を進めるが、
この「走馬灯」の思いつきには膝を打つしかないと思った。

だって「走馬灯」なら勝手に捏造しても、史実と違う!とは誰にも言うことはできない。
「走馬灯」が存在するかしないかさえ、誰にも証明することはできない。
現世に「死んだ経験がある人」はいないからだ。

この論破が不可能な物語の中であれば、
真偽の不確かな情報であろうとフィクションから引用したエピソードであろうと、自由に登場させることができる。

それに「走馬灯」であれば、
恐らく新選組や隊士の主観、すなわち「願い」や「個人の感想」が色濃く反映されているはずなのだから、
実際よりエモくても、
客観的な事実と違っていても、
誰も「史実と違う」とイチャモンをつけられない。

そう、おそらく、末満健一か、もしくは今作の製作陣は、
「新選組」に対して冷笑的だったり、
「新選組ファン」に対しても意地悪なクソリプを飛ばす連中から、
刀剣乱舞のキャラクターを、
ファンタジーのファンタジーみたいな、
「新選組の刀」であるキャラクターたちを守りたかったのではないか。

いや、そもそも今作の元ネタであるゲーム本編の「慶応甲府」のイベントが、そうした「逸話」と「史実」の葛藤の中で「ゲームのキャラクター」がアイデンティティを再発見するストーリーだったからか……。

とにかく、この「走馬灯」の構造は彼らを「守る」だけでなく、「成長」させるための物語としても役に立った。

甲府のころ、もはや瓦解した新選組の隊士たちが美学や精神論を高らかに語るような精神状態にあったか?どうかの真偽は確かめようもない。
しかし刀剣男士はいずれも、
元の主から「闘い方」や「人の道」を教わることができた。

それらを「剣道」を通して語り合う姿は「拳で語り合う」ようなアツさがありエンタメとして映える一方で、
本当はただの金属片である「刀剣男士」たちと、
「戦うこと」は心を通わせる唯一の言語であるかのようでもあった。

そうして彼らが元あるじに刀で勝つこと、
それは「親離れ」のようでもあった。

元あるじの心や志を深く内面で継承し、
自己と、元あるじを本当に受容することができた。

刀剣乱舞の刀剣男士たち、
とりわけ今回スポットの当たった新選組の刀たちは、新選組を愛した歴史ファンの愛によって生まれ、「刀剣乱舞」を愛する審神者に愛されここにいる。

劇中に何度も繰り返されていたが、今作は紛れもなく「愛」の物語であることが示されていると思った。

早乙女友貴


物語の咀嚼にも相当体力を要したが、
注目すべき点はそこだけではなかった。

今作は個々の役者の技術、華やかさ、存在感も圧巻だったと思うが、
特に素晴らしかったのは早乙女友貴だと思う。

私が子供の頃、早乙女友貴や早乙女太一が所属していた大衆演劇の一家のドキュメンタリーを母が好きで何回か見た記憶が残っている。

幼心に、狭い小さな芝居小屋で歌舞伎でも演歌歌手でもアイドルでもない独特のショーを、着物の襟に客からもらった一万円札をズラッと挟んで演じ舞う姿は異様にも見え、
「大衆」演劇という名もあってか、
俗っぽいイメージを持っていたと思う。見たこともないのに失礼だと思うけれども。

でも、今作で早乙女友貴演じる沖田総司を見て、生まれた時から舞台の上で生きることを強いられた人の放つ舞台上での「存在感」とはこれほどかと感嘆させられた。

他の出演者も実力もキャリアもある俳優ばかりだったと思うが、
早乙女友貴はその中で際立っていた。

「刀剣男士」のルーツになった伝説の剣士として、
これ以上ない、という感じだった。

ところで私には宗教二世の生い立ちがある。
現在の内心としては宗教二世の生い立ちをおおむね恨みに思って生きている(苦笑)が、
宗教でなくとも、芸能人二世やスポーツ選手二世など、生まれた時から周囲の同年代とは違った生き方を強いられる「二世」の人生についても、自身と比較しながらあれこれ想いを馳せている。
そう言ういきさつもあって今回、大衆演劇の一座に生まれた青年、つまり「大衆演劇二世」として生きている俳優の舞台上での立ち振舞いがあまりに美しかったことに感銘を受けた。
子供時代に他の子達と違うことをしなければならなかった「二世」に集積した技術なりセンスなりがこうして舞台の上で圧倒的に花開いている。
であれば、二世の生い立ちとは必ずしも、悪いことばかりではないのかもしれない……などと考えたりした。
まぁ、私のようなカルト宗教の知識や宗教内でのサバイブ術は集積したからといっても、それは何にもならないのであろうが……

雑にまとめる


というのも、この記事を書いているうちに現地の観劇の日になってしまったからだ。

もう少し、気付いたことをつけたしたい。
今作では斎藤一が、
「るろうに剣心」の斎藤一が放つ必殺技「牙突」と同じ構えをするシーンがある。

このことにヒントを得ると、
今作はあらゆる新選組にまつわるフィクションの寄せ集め、ごった煮であるという一面があると思う。

「新選組にまつわるエピソードはどれが史実かフィクションかわからねーから全部入れようぜ!!!」といって、まさかるろうに剣心にまで典拠を求めてくるとは思わなかった。(褒めてる)

そう考えると、
歴史上の人物たちのキャスティングも、
美化された新選組を扱ってますよ〜〜ということで、
あえて新選組に過剰なイケメンをキャスティングしたのではないか?とかも考えた。
ここまで美麗なルックスの俳優ばっかりで固めた新選組の作品も珍しいと思ったからだ。

そして今作は「取り入れるべき新選組のフィクション作品」として、
「ミュージカル刀剣乱舞」の傑作である「幕末天狼傳」を挙げているとも感じた。

そして整合性という点においても、
「新選組にまつわるエピソードはウソorホントわかんねーけど、
どっちにしても『付け足したいヤツ』もしくは『事実を後世に伝えようとしたヤツ』が『新選組に対して何らかの想いを抱いていた』ことは確かじゃん。
そういう『想い』があったことは史実じゃん」
と言われると、確かに……となる。

「新選組」に冷笑的な視線をよこす者がいる世の中に、エモい新選組作品を新たに産み出そうとする際の一応の論駁にはなっている。

まったくよく考えられているものだと感嘆した。

(現地編に続く)

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