【SH考察:102】「自由か死か…」という言葉の重み
Sound Horizonの第六の地平線Moiraでは、曲中に「自由か死か…」というナレーションが入る。
前後の文脈からして違和感はなく聞き流してしまうようなフレーズだが、実際のギリシャ史、というよりは人類史を見ていくと、このフレーズに重みを感じるようになった。
今回はこの「自由か死か」の歴史を追っていこうと思う。
対象
6th Story Moiraより『奴隷達の英雄 -Ελευσευς-』
考察
ギリシャにおける「自由か死か」
エレフセウスが復讐を決意し、奴隷達を味方につけた後、東方に奔る直前のナレーションで「自由か死か」というフレーズが入る。
これは現代のギリシャ共和国の標語「Ελευθερία ή θάνατος」の和訳・英訳でもある。「Ελευθερία」が自由(freedom)、「θάνατος」が死(death)だ。
この標語は、1821年~1827年にかけてオスマン帝国から独立するために勃発したギリシャ独立戦争で掲げられた標語が、そのまま国家の標語になったものだ。
1821年3月25日、ギリシャのパトラという都市の主教(正教会の高位聖職者)パレオン・パトロン・ゲルマノスが、聖ラヴラ修道院で「自由かさもなくば死か」と叫び、戦いを宣誓して革命政府を開設した。
これにより、3月25日は今でもギリシャの独立記念日となっている。
つまりこの場合の「自由か死か」はオスマン帝国の支配に反抗するギリシャ人の雄叫びと言える。
「自由か死か」の歴史
ギリシャにおいて「自由か死か」が重要な意味を持っていることは理解できただろう。
さらに歴史を紐解くと、「自由か死か」自体はギリシャ以外でも様々な場面で標語になり、重要視されてきたことがわかる。
前述のギリシャ独立戦争も含まれるが、特に18世紀から19世紀にかけて多用されていた。おそらく、アメリカ人の弁護士であり政治家だったパトリック・ヘンリーの1775年の演説に刺激を受けたものではないかと考えられている。
ヘンリーはアメリカがまだイギリスに植民地支配されていた頃に異議を唱え、植民地議会の議員として、植民地の抑圧を強める条例に対する反対運動を指導した。
その中でも有名な演説の結びの言葉として「give me liberty or give me death!(自由を与えよ、さもなくば死を!)」が使われた。
この後1789年のフランス革命中や、アメリカ独立戦争後の1809年の乾杯挨拶、そして前述の1821年のギリシャ独立戦争での宣誓、さらには1826年南米ウルグアイの独立戦争時の旗というように、ヘンリーの演説の後立て続けに発生した独立や革命といった、自由や権利を勝ち取るための活動で「自由か死か」は多用されてきた。
なお、さらにそれ以前にも使用例はあった。
ただヘンリーの印象的かつほどよく短くなったフレーズが人々の心に刺さり、その後多用されるにつれて言葉が磨かれ、極限まで短くなっていったのだろう。
ヘンリーの演説以前を見ると、一気に400年ほどさかのぼるがスコットランド王国で使用例があった。これはヘンリーの演説と比べると明らかに長い。
またおそらく確認できる限り最古の使用例は古代ギリシャのプラタイアの誓いだが、これも比較的長めだ(訳文しか確認できなかったが)。
キャッチーなフレーズを使うという傾向は近代のトレンドなのかもしれない。
現代でも、過去「自由か死か」を掲げて独立を果たした国や地域が「自由か死か」を今でも標語にし続けていたり、チェチェン・イチケリアのように現代で独立を目指す活動においての使用例がみられる。
結論
「自由か死か」は、他者による支配で抑圧された人々が共有し掲げるモットーとして、現実世界で実際に使われてきたものだった。
それは国は言語を飛び越え、少しずつ表現を変えながらも現代まで人々の中に生き残り、国家として掲げている国さえあるほどのものだ。
この標語の歴史を遡っていくと、死と隣り合わせになりながら命と等価交換にしてまでも自由を得ようともがいた人々が、何百年も、もしかすると何千年もいた形跡であることがわかる。
それこそ文字記録が残っていないだけで、古代ギリシャで奴隷として虐げられた人が心の中で「自由か死か」というフレーズを唱え、執念を燃やしていたとしてもおかしくはないだろう。
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更新履歴
2024/08/03 初稿
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