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こどもたちに住んでもらいたい未来について

先日、とてもわかりやすいセクハラを受けた。
私は相手をじっと見て黙っていたのだけど、怒りも悲しみも現れなかった。
少し時間が経って、改めて考えてみたらそれは目の前で行われていることが理解できなくてキャパオーバーしてしまったという合図だった。世の中にまだこんな発言をする人が存在するんだという驚き、ぶつけられている言葉の猥褻さ、そしてだれも止められないという嘆きと諦めなど、様々な感情が渦巻いていたのだ。何も感じないように、外に感情が出るスイッチを切ってしまったのだと分かった。

だから、セクハラについて改めて考えてみようと思った。


職場において様々な人と接する。職場という環境において良好な関係性を持続するためには相互を尊重する必要がある。その尊重が失われた時、セクハラは発生する。相手を軽んじる関係性が成立している状態のことだ。
もちろん人間関係をより良く保つために互いに相手を尊重することが必要なのは職場に限らない。家庭でも学校でも人と人が同じ空間で過ごすためには必要なこと。
私的な状況において、馬鹿にされたら怒る。
しかし、私的にしても公の場であったとしても、怒るという行為が良い行為だと認められる環境はほぼない。相手の言動に対して感情を荒げたり、怒ったり、暴力をふるった方が一方的に悪いとみなされる場合が多い。冷静であればあるほどタチが悪い。

セクハラは性的なことを理由に、人を愚弄するということだ。
バカにされるということは、人として尊重されないということだ。
立場の優位さを利用して、相手の立場の弱さにつけ込んでくる卑劣な行為だと言える。受けた方はいい気分にならないし、気持ちが悪くなる。
しかし相手には気分を悪くさせてやろうという意図もなければ、むしろ場を盛り上げようという意思さえある。相手を見下げてからかいの対象としてみなす。
かつてはその行為が社会的にも許されていた時代もあった。でも今は違うということをただ、知らない。無知から生まれている。

なぜこんなことを体験しなければならないのだろう。

背景には女性蔑視、女性差別の歴史がある。アップデート、更新ができていないひとたちと並存しているということだ。更新ができていない人たちはなぜ出来ないのかといえばその方が楽で、かつてそれで利を得てきたためだ。人は簡単に楽な方に流れる。

また、テレビ文化が廃れてきているということにも原因がある。SNSやネットを使わない人たちの情報源は、かつての通りテレビや新聞の情報のみで、偏った情報が流布している現状を鑑みると現代の流れをつかむことが困難だ。
一方、インターネットなどを情報源として活用することが自然な人たちは日々新鮮な情報を得て生活していると言える。

生活で得る情報の土台はもう変わってしまった。しかし、かつての利益を固持するひとたちによって今も日本社会は動いている。新鮮な情報がないひとと一緒に生活することは分断が起きる。

私は、性別や性的志向によって人と人が差別されたり階級別に分けられることが当然とされる状況は、文化と呼ばないし、その将来を子供たちに背負わせる大人になりたくない。セクハラを文化と呼ぶ人たちが都合良い環境を維持するために割く時間や金銭こそが無駄づかいだ。投資するのは過去の栄光ではなく未来のはずだ。

だから、子供たちにも引き継いでもらいたい文化を育てること。子供たちに胸をはって伝えられる行為や環境かどうかでこれから行動していきたい。
わたしたちの世代がやることは、子供たちが自分たちで生み出すために、よりよい文化的素地を整え、種をまくことではないか。
For children,For future.






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