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”冷血”

カポーティーの小説を読んで、興味が湧いて映画を観た。
まずは有名なものをと思って冷血を選んだ。
カポーティーが冷血を書くにあたってのドキュメンタリー的映画もあるみたい。
なんとなく、本作からかなと思ったので本作から観た。

本作のあらすじ。(Wikipedia引用)
1959年11月16日、カンザス州のとある寒村で、農場主の一家4人が自宅で惨殺されているのが発見された。農場主はのどを掻き切られた上に、至近距離から散弾銃で撃たれ、彼の家族はみな、手足を紐で縛られた上にやはり至近距離から散弾銃で撃たれていた。あまりにもむごい死体の様子は、まるで犯人が被害者に対して強い憎悪を抱いているかのようであった。
しかし、被害者の農場主は勤勉かつ誠実な人柄として知られ、周辺住民とのトラブルも一切存在しなかった。農場主の家族もまた愛すべき人々であり、一家を恨む人間は周辺に一人もおらず、むしろ周辺住民が「あれほど徳行を積んだ人びとが無残に殺されるとは……」と怖れおののくほどであった。事件の捜査を担当したカンザス州捜査局の捜査官は、強盗のしわざである可能性も視野にいれるが、女性の被害者には性的暴行を受けた痕がなく、被害者宅からはほとんど金品が奪われていないなど、強盗のしわざにしては不自然な点が多かった。そもそも農場主は現金嫌いで、支払いは小切手で済ませることで有名な人物であり、被害者宅に現金がほとんどないことは周辺住民ならば誰でも知っていることであった。
事件の捜査を担当したカンザス州捜査局の捜査官たちは、事件解決の糸口がつかめず、苦悩する。しかし、犯人を特定するのに有力な情報がもたらされたのをきっかけに、捜査は急速に進展し、加害者2名を逮捕することに成功する。
そして、加害者2名は捜査官に対して、この不可解な事件の真相と自らの生い立ちを語り始めた。

ここから感想。
事件の加害者ペリー・スミスとディック・ヒコックしかほとんど描写されない映画。
最初は2人が被害者の家に向かう道中がずっと続いて、これから人を殺しにいくというのがだんだんと明確な縁取りになって観ている側に示されていく展開。
彼らが事に至る目的とかきっかけは、2人の会話の中からだんだんとわかってきて、序盤30分くらいはずっとこんな感じで、少し眠くなってくる。
そうこうしているうちに、犯行があっさり成功。
それまでがおどろおどろしいだけに若干拍子抜けした。

それからは2人が警察から逃れながらメキシコ(カポーティーって南国への憧れがあるのかな?時代?)に向かう中で、2人の意見がぶつかったり、ペリーの過去の話だったりが繰り広げられる。
このあたりからペリーのことが何だか気になる。目も覚めてくる。
ペリーのお父さんに語られる過去とペリー自身の回想シーンが頭の中で交差していく。
俳優さんの表情や仕草がすごく自然?で、本物の2人に思えてくる。
途中で出会う少年と一緒になってビンを拾うシーンなんかは、とても一家を殺人した人間には思えない姿。
実際に人を殺めた人間というのは、そういうものなのかもしれない。

ここまできて、ペリーの回想として犯行の描写が詳細に描かれる。
ペリーが良いやつに見えてくる。(実際はそんなことないのに)
ヒコックに対して幻の金庫を探しているとペリーが言った時、ああ、そうか、カポーティーだと感じた。
夢とか幻想に思いを馳せた人間たちとそうでない人間とのはざまで、どちらともなく揺り動かしてくれる感覚がした。


そんな2人の夢や幻想で殺された一家がいて、2人は長年の裁判の末死刑になる。
ここまできて、あれ?死刑制度についてのアンチテーゼ?
と思うような描写。
かと思いきや、ヒコックのような死刑制度に賛成を示す描写。
対して反対派のペリー。
あれ?世の中には2つの法があるとか見た目も考えも対照的な2人とか。
シンメトリーな存在がいくつもあることに書きながら気が付く。
カポーティーの他の作品にもそんな存在がたくさん登場する。
なんでだろう?
とまぁ、それは一旦置いておいて、映画の話に戻る。
2人が長い隔離期間を経て、刑を執行されるシーンに移る。
隔離部屋からも音が聞こえる距離にあるコーナーと呼ばれる倉庫の隅で処刑されるのだけど、そこでも2人は対照的で、観ている側の思考を誘う。

ついこの間、National Geographicで死刑制度についての記事を読んだ。
死刑制度を存続している国って年々減っていて、日本に住んでいて当たり前のようにあるものだと思っていたから廃止している国がかなりたくさんあると知って驚いた。

海外では死刑制度の可否について積極的に声を挙げる人が多いそうで、冤罪の可能性のまま死刑判決を受けそのまま執行されることもあると書いてあった。
私は人を殺してるのだから自分も同じ報いを受けて当然だと、高校生の頃まで本気で思っていたけど、歳を重ねていくうちに、どうにもどちらが良いとはいえなくなってきた。
無責任な人間だなと自分でも嘲笑するが、本当に本音で言えばどちらとも言えないし、人を殺すことのメリットが思い付かない。
仮に自分の大切な人が殺されたとして、それが誰でも良かったとかいう理由であれば、高い確率で犯人に死刑を求刑すると思う。それだけ相手を憎むだろう。
だけどそれで全てが終わるものでもなく、逆に恨むべく相手がこの世にいないという想いが自分を追い詰めることにも繋がってしまう気がする。
そう考えたら恨みを晴らす方法を探すってのは途方もない旅路に思える。

どう足掻いたって被害者側には救いの手が少なく、何のメリットもない犯罪を犯す者が後を絶たないこの世の中に絶望した。


そんなことを考えながら観ていたら、ペリーが処刑され映画は終わる。
ペリーが最後に発した謝りたかっただけというのは、お父さんへの言葉だと思うのだけど、何を謝りたかったのだろう。あの日のこと?
両親への子供心を背負ったまま大人になった非現実的な人間の末路も、コンプレックスを消化できずに魅せ方だけを習得した小賢しい人間の末路も同じ。
人間の血はどんな人生だろうと同じ色で、心臓が止まればその温度も冷める。
夢や幻想を抱きながら真っ直ぐに生きていける保障はどこにもない。
誰だっていつだって、生きている間はメリットやデメリットに関係なく人を手にかける瞬間が訪れる可能性がある。


映画を観て、そんなことを思った。


追記(2021/03/26)
2005年の冷血を書き上げるまでの伝記映画を観た。
取材していくなかでカポーティーとペリーの間に芽生えるもの。好奇心と自己愛。
映画終盤のカポーティーがペリーの処刑を見届けたシーンが印象的。
自分と似た存在を失うことの怖さ、誰しもが陥る可能性のある闇、結局は誰が冷血だってより、人間は皆一様に冷血な部分を持ち合わせているという意味に思った。

彼らの結末を見届け冷血をかき上げた後、カポーティーは書いている全ての作品が未完のままこの世を去ったらしい。
自らが結末を求め、それを目の当たりにする恐ろしさがトラウマになってしまったのかな。完成させればそれで終わってしまう。そんな虚しさも感じた。

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