映画『犬王』

『犬王』
2022.6.12 初鑑賞、その後複数回鑑賞

 最初に見た時は、冗長だと思った。全体としてはいいのだけれど、なんか間伸びしているなと。それもあって、最初の時は映画の全体像というか、主題みたいなものがいまいち掴みきれなくてモヤモヤした。
 2回目は、アニメの平家物語も見て、原作犬王も読んで、無発声応援上映で観た。鑑賞方法としてはこっちの方が自分には合っていた。既観だったのと原作を読んでいたから、ちょっと別のことを考えていても内容を追えたという部分は大きいかもしれないけど、初回と比べて没入感は段違いだった。映画の世界観に潜れたおかげで、色々考えもまとまって観れた。何はともあれ普通に楽しかったので、機会があったら無発声応援上映ぜひ。


以下考察


友魚と犬王の対比

 犬王は名無しから自分で命名して、その名前が他者に認められたのに対して、友魚は他人から名付けられることで共同体の中に存在しいていた。(例:壇ノ浦・イオの友魚、当道座の友一)友魚が、自分で命名した友有という名は、足利の元では名乗ることができなくなり認められなくなった。(ここで友一を名乗れば助かったかもしれない)この対比が辛い。
 それ以外にも、友魚は父に泳ぎ・谷一に琵琶を教わったけれど、犬王は父に猿楽を教わることはなかった。でも、犬王は母の胎内にいた時に子守唄を歌われ愛されていた描写がなされていたのに対して、友魚の母は夫(友魚の父)の死後発狂してしまった。自分にはその母親の様子が、どうして誰のせいでこうなったのかを息子に求めさせる呪いのように見えてしまった。でもその割には、母親の成仏が早かったのも一時の感情だったの?と疑問に思う。母からの愛の対比。
 あと、犬王は平家の話を拾っていたとはいえ自分の話をしていたけれど、友魚は犬王によってしか物語を紡げなかった。(犬王のことを語っていた)

犬王の父

 最も華やぎたいという願い。それは、犬王を受け入れ後押しすることだったのではないか?と思う。将軍様にも認められ、あの京都の街で最も華やいでいた犬王。彼は私の息子であるという誇りは、華やいでいることにはならないだろうか。それを認めろということは、その道を貫いてきた者に対して酷だとは思うけど、こういう解釈もできるよね。献げたのは無垢の赤子、後々の「犬王」で、その献げ物が大成することは念願成就と捉えられると思った。そう思えなかったから、爆ぜちゃったのかな。

竜中将の世界

「過去と今 未来が溶けてゆく」「生きているのか死んでいるのか/亡霊のように立ち尽くすばかり/思い出せ己の名を」
 あの場所における、どこの誰であるのかが重要だったのではないか。比叡座として呼ばれた犬王、比叡座の棟梁の父、深く潜った際にイオの友魚となった友有。自分が何者であるのかが全員一様にして暴かれてた。
 あと、過去と今と未来が全てそこにあったという表現として、友魚が胎児の犬王を見ている描写っていうのがグッときた。あそこで友魚が「犬王を助けてくれ」と叫ばなかったら、平家の亡霊は犬王に憑いていなかったかもしれないし、そのまま犬王は死んでいたかもしれない。でもなんで平家の亡霊だったのか。そもそも、友魚の目は平家の宝剣の呪いで盲いたわけで、その復讐を求めていたんでしょ。これは別に平家を恨んでいたわけではなく、平家の刀を探させた人を恨んでいる?平家のモノを潜って拾う友魚に、平家の隠れ谷を探していた友一に、平家の亡霊はなんらか惹かれていた?
 違うわ、思い出した。犬王の父が隠れ谷で平家の話を拾った琵琶法師を殺していたからか。その琵琶法師たちに掬われ(救われ)世に出るのを待っていた平家の亡霊たちが、もう一度浮かばれる場所として犬王を選んだのか。そうすると友魚は、ずっと探していた平家の隠れ谷で拾った話に既に出会っていた上に、全てを犬王に託していたことになるのか。そしてその成り行き自体を己が語る。深く潜って見つけた物語がこれなの、涙。

 犬王の父は、魔力を持つ面をつけることを選んだ=己でいることを諦めた。己としてここに有れない。
 友有は、ずっとひた面だった=ずっと己だった。その一方で、自分を偽れない(友一に名前を戻せなかった)=面をつけることができなかった。そのため、首を打たれた。
 犬王は、最後には面を外してひた面になることができた=己になれた。だけど、足利に定本以外の平曲を舞うなと言われた時に、扇子で一瞬顔を覆った。その時にまた、面を被ったんだと解釈した。その瞬間に表情が一変したし。足利に従う自分という面。そうすることによって、友有も救われると思ったから。結果的に友有を失ったけれど、面を被っているから最後無表情に舞っていたのではないか。だとしたら、犬王の本当の顔はどれだったんだろうね。

犬王の母の子守唄

「この都に流行るもの〜」と羅列された中、最後に空騒ぎがある。これが、いっときの興隆であった友有と犬王のことだといいなと思った。

「今此処に在り」

「今此処に在り」ということは、過去今未来全て“に”あるということで、全て“が”あるということでもある。この四次元的というか、賢治的というか、な考え方が好きなのでよかった。

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