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「はい、幸せです」

今生きていることが楽になったのは。
問いかけへの行き止まりがなくなったから。


とても、とっても大切だとかつて思い、必死に愛情を注いでいた人に聞かれた。


「ヒカリさんは幸せなんですか?」

わたしが「どうか幸せでいてね」と伝えた、その返事だった。



これまで「生きる意味」をさがし続けてきたわたしの毎日は、常に終わりに縛られていた。

何をしてもどこにいても、どんだけ笑っても、最後の「でも結局」に世界を狭められた。

結局わたしの「望み」はあの時あの場所では決して叶わないもので、それでもそんな現実に目を背けながら追いかけていたから、毎日毎瞬間訪れるその絶望に辟易していた。


わたしの人生は、行き止まりに囲まれていた。

生きる意味なんてなかった。
わたしはずっと、こんな世界から消えたかった。

消えてしまいたかった。

部屋に帰ると毎日目に入る、ベッドフレームから垂れ下がった真っ白のロープ。

そんなものすら見慣れてしまうぐらいには、世界に絶望していた。
そんなものがあってようやく私という人間がなりたつぐらいには、この世界に生きられていなかった。


わたしはどうしても生きる理由が必要だったからさがし続けた。

「幸せですか」なんて質問より、それ以前に「元気ですか」って質問にすら絶望していた。

誰かの幸せにつばを吐き続けていた。


わたしの選択はいつも生きるか死ぬかから始まっていた。
みんなが人生の選択をしていくとき、わたしはいつも一つ手前の選択から始まっていた。

全ての物事の前提にすでに生きるがあるのが、理解ができなかった。

生きているっていうことから、っていうか生きるの上に乗っける物事にいくら疑問を持ったって問題はいつもそのしただった。


そんなものを足の裏に踏みつけて、存在すら知らないみんなが羨ましかった。
どうしても羨ましかった。

なんでわたしの選択はいつも0からなのか、そんなことがわたしの行き止まりの世界をどんどん模っていった。

わたしもみんなのように、1から始めたかった。


今、ようやく行き止まりのないわたしに行き着いた。

生きていて、行き止まりがない。

なんて安全なのだろう。
なんて、わたしは歩き続けられるのだろう。


立ち止まったって歩いていたって、行き止まりなんかないんだから好きな感覚にいればいい。

素晴らしい世界だと思う。


生きている理由なんてそんなものがなくたって生きてていいと思えるのは、死ぬ理由がなくなったから。

生きてる理由なんか探すより、こっちの方が1000倍生きられるような気がしている。

生きる理由がないことと死ぬ理由はイコールではなかったんだ。

だからずっと「死にたい」はなかった。
「生きていたくない」と「消えてしまいたい」だった。

なんだ、そんな簡単なことだったんだ。


「ヒカリさんは幸せなんですか?」


「求めるべきものを取り払うということを知ってようやく幸せという実感とわたし自身をつなげられるようになってる」
と答えた。

なんて、まわりくどい。
『わたしみたいな人間は「はい、幸せです」だなんて答えられない。もっと必死こいて、どうにか幸せという言葉を現実に持ってきてつじつまを合わせるしかないんだよ』


でもこうすればわたしは、その質問に遠回りしながらでも幸せという言葉の意味を理解できるようになったんだ。

そんなことを聞いてくれたその人にわたしはどうしてもわたしのエゴを伝えたかった。


『どうかあなたには「はい、幸せです」ってまっすぐ答えられる人生を生きてほしい』


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