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遠くから見えるものは美しい

絵を描くのが得意な母は、言っていた。
「描き上がったら遠くから見てみなさい」、と。
遠くから見て美しいものに、人は心惹かれる。
それは絵だけではなかった。
いつも笑顔を絶やさず、話すのが上手く、明るく太陽のような人。
周りには、いつもたくさんの取り巻きがいる。
皆、その人のことを褒める。
悪く言う人はいない。
だがどういうわけか、その太陽のような人が、私の前では別の一面を見せるのだ。
それは子どもの時からだった。
その少年は、スポーツが得意で、面白くて人気者で、ガキ大将のような存在だった。
以下、彼をMくんと呼ぶ。
クラスには、Kくんという、ピアノが弾けて音楽が得意な、当時住んでいた街には、あまり見かけないタイプの子がいた。Mくんは彼のことを、虫が好かない様子だった。
大勢の前で、わけのわからない難解な歌を、OKが出るまで歌わせて泣くまで止めさせなかったり、Kくんがいかに嘘つきであるかを吹聴したりしていた。
Kくんは、そこから不登校となり、中学に上がれば悪い仲間とつるむようになり、かつての繊細な面影をまったく失くしてしまったかのように見えた。
一方Mくんは、そのような非情な一面を先生や周りから見咎められることもなく、中学では生徒会長となり、大人になっても同窓会では幹事を務め、常に輪の中心であることは変わらなかった。
子ども時代からMくんを知る知人幾人かに聞いても、Mくんの「陰」とも言える一面について語る人は居なかった。
それから、私は、地域、職場、その他のコミュニティで、「Mくん的な」華のある人に出会うことになるが、その人に近づき過ぎると駄目だった。
やはり「あの」一面が見えてしまうし、私が見ているところでは、しっかり本性を出してくるのである。
「いじめ」というものが、これだけ問題視されていても、決して無くなることがないということの、答えの一つのような気もしている。
自分にとって直接実害が無いことに関しては、それがいじめであると認識されていない、ということなのだ。
しかし、ネットが発達した最近になって、パンドラの箱が開けられることがしばしばあり、その封印期間の長さにむしろ驚かされる。
時代、住む環境は違っても、同じような体験の共有を、ネットが可能にしてくれた。
そして、いま私がこのような駄文を綴る機会を与えられているのも、ネットのおかげである。
そのネットも使い方によっては、偽の太陽が本物であるかのようにふるまったり、見るほうが勝手に本物だと錯覚してしまうこともあるのだろう。

遠くにあるから、美しく見える。

そう思って生きていくほうが、いいのかもしれない。
自分の近くにある、本当に大切にしなければならないものが見えなくなり失くしてしまうことこそ、もっとも悲しい事実だと思うから。

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