「華Dollプロジェクト」というプロジェクト名が怖い。

ふせったーだと読み返す時にちょっと面倒なのでnoteにも置いておくことにしました。少し文章を整えています。
自分がいつ何を考えていたのか、をだいじにしたいので、ふせったーの公開時間を記載してリンクを貼っておく。
2021/4/23



Twitterの音アカの方でBIRTHのダンスが7人体制な事に対する想いとLoulo*diの脱退加入について、
考察はまったく関係なく音楽ファンの立場で思うところをつらつら書いたんですが、アイドルとは何か、という話をしなくちゃいけないような気がした。
この後のの内容とはまったく関係ないのでリンク貼っておくので気が向いたら読んでください。
https://twitter.com/tukasa_sora/status/1384160738898452480?s=20
https://twitter.com/tukasa_sora/status/1384174013287591941?s=20


松尾清貴さんの「エルメスの手」という小説があって、この類いの話をする時にはいつも話題に出すんだけど、

依存する彼女はかっこ悪い、依存する自分は惨めだ、そう言いながらそれでも依存しなければそこにいることができないし、そんな自分を知っている。だからアイドルはいつの時代にも受け入れられる。実体のないものになら依存しても構わない、実体のないモノなら誰に依存しようと構わない。正確には、そのイデアである概念が受け入れられる。対アイドルへの依存はモノへの執着じゃない。アイドルと自分との間に横たわる永遠のイデア、不変の関係性への執着だ。だから、アイドルは唄を歌う。モノへの執着を前面に押し出せる人間は正直な方だが、そうできない人間もいる。だから唄がある。唄は漂流物として形を成さず、アイドルと自分の距離を永遠に保つ。その時記号は世界の果てに漂着し、メッセージを伝える概念になる

っていう文章があってだな、これはつまりは偶像崇拝の話なんですよ。
エルメスの手は概念やラベルやフェティシズムの話や神話の話がたくさん出てくる小説という名の哲学書みたいなミステリなのでお勧めしておきます。難しいけど定期的に読みたくなるやつ。
そう、華Dollに触れて私は加筆修正版のエルメスの手の冒頭にある文脈信仰にずぶずぶ嵌まっていると感じる。
それに、「私」は「私」である、ってそうだよねぇ、死への恐怖の克服と並び立つ宗教的なお話だよねぇ、ってひしひしと感じています。

話を元に戻して。
この「偶像」のイメージに近いのは圧倒的にLoulo*diの方だし、彼らもそうある自分たちを誇りに思ってる節がある。
だからこそ僕はLoulo*diの音楽は一種の宗教音楽だと思っているし、そうブランディングされているんだと思う。
一方のAnthosは、天霧のブランドイメージからは外れて、Universのドラパで記者の人が話してるし公式に説明もされてるように、親近感をもてるというか、彼らは僕らと同じ人間である、という、もっと今のアイドル像に近い感じ。
今のアイドルはトイレ行くしご飯食べるもんね、っていう、なんだろう、言葉にしようとすると難しいな、、

アイドル業界のタブーに切り込んだ、って、じゃあ何がタブーなんだって言ったらまぁいろいろあるんだろうけれど。
この「アイドルは作り上げられた偶像である」っていうのもそのひとつだとは思っている。
そしてそれはプロダクションとアイドルだけが作っているものだけではなくて、受け手である僕らが共に作り上げる幻想です。
彼らは僕らの友人でも隣人でもない。
(随分前に読んだこのツイはまさにこの話なのでリンク張っておく。 https://twitter.com/kibiruu/status/734015035584839680?s=20 )
さて、じゃあ私たちが聞いているこの物語は果たしてどこまでが「彼らのリアル」なのか、と思う瞬間が、ないですか。
眞紘のブックレットで素顔の話をしてるの、あれ、どういう意味だと思う…?
とてもメタ的な発言だなって思ったし、もし「聴かれている」ことがわかっているんだとしたら。
まぁこの線はたぶん物語の構造上、考慮しなくて良い部分ではあると思うんですけど、そう疑うこともまた想定されているんじゃないかと思うとぞっとしますね、、
ミスリードにもならない、ただただ皮肉なメッセージ怖い。

なんの話だっけ。そう、偶像の話です。(すぐ脱線する)
アイドルの語源はまさにそれなんだよな。
話がまた逸れるけどヴィドールっていうV系バンドが昔いてね。
美人形って書かれたりするんだけど。
プロジェクト参加メンバを「ドール」って呼ぶのはこれと同じ響きからの当て字だとても、偶像崇拝と人形を重ね合わせるとものすごくぞわぞわするんだよね。

ここで先に花の話をしたい。
花は必ず枯れるわけじゃないですか。
平家物語の冒頭で謳われるように、盛者必衰の理がそこにはある。
彼らに植えられた「種」がどんなものなのかは未だにちょっとよくわかってないけど、芽吹き育ち咲く華も、その理から逃れられないのだとしたら、ってやっぱり考えるんだよね。
咲き誇り、散り行くその直前が、あるいは散っていく様こそが、美しいとは思わないか、と。
桜を愛でる友人たちはどう思う?

社長は、永遠に枯れない花を作りたいのか。
あるいは、散り様まで含めて人の心に棲み続ける存在を生み出したいのか。

たとえば。
「枯れない花」を作りたいのだとして。
それは「造花」なわけじゃないですか。
育成コストの話が出てたけれど、アイドルとは「消費されるコンテンツ」であることは動かせない事実で。
(それはビジネスのお話なので感情論とはまた別の部分の話なんだけれど。そしてこの「消費されるコンテンツ」であることもまた、誰もが知る事実ではありながら口にしてはいけないタブーの感じはある)
消費されて消えていくだけのコンテンツではない「本物のアイドル」とは「咲き続ける造花」と≒なのかな、と。
「生花」と「造花」はつまり、コンセプトの「人間」と「人形」なわけだよね。
こういう話は言い尽くされてきているとは思うけれど、改めて、「華」と「ドール」を冠したプロジェクト名にぞっとする。

たとえば。
散り際まで含めてプロジェクトなのだとしたら。
ChiHEROのレプリカを作ろうとしてる、って話なんだろうなぁ。
それもまた、造花、であり、人形、なんだよな。
ChiHEROがいわゆるプロトタイプなのかどうかでも話が違ってくると言うか、普通の人間でありながら理想型を築いた彼を模したものを作ろうとしているのなら寧ろ天霧社長のメンタルを心配しちゃうやつっていうか。
プロジェクトっていつ始動なんだろうな…どこかで言ってたっけ…?
まぁそんな感じでこっちは怖いのでまだふわふわしてるけど、亜蝶さんの言葉を聞いてると、亜蝶さんと眞紘がChiHEROの「出来損ない」のレプリカなんじゃないかと思う時がある、よ…やめて…しんどい…。

あと検査の後、必ず名前を聞く行為が私は気になっているんですよ。
「記憶の混濁」を心配しているのか。
「記憶の定着」を確認しているのか。
果たしてどっちなんだろう、って。

それから医療スタッフが、ドールが安定を欠く時期、の話をしてるけど、少しずつ「人間」を象徴する「個」を失っていくことに気づいてしまったらそりゃ安定も欠くよ、って思うし、揺らぎが魅力を増強する部分は少なからずあるからこの不安定期が絶頂期に重なるのは、そうでしょうとも、って話です。


話が散らかってきたところで終わります。

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