自由に窒息する
このことばに出会ったのは、高校生のときだったと思う。橋口譲二さんという写真家の『疾走』という写真集にでてきたことばだ。
中学生のときに、九州の地方都市から、高層ビルの立ち並ぶ東京の埋め立て地に引っ越した。昼と夜で人の流入と流出が逆転するドーナツの穴の中心のような街で、東京のひとのふりをすることにも慣れた頃、近所にあったオフィスビルに入っていたシュッとした本屋の奥の美術本の並ぶ一角で、わたしは初めて、写真集を買った。
最初に手にした写真集は、この『疾走』と、藤原新也さんの『メメント・モリ』、ホンマタカシさんの『Hyper Ballad:Icelandic Suburban Landscapes』だ。今考えると、なんてとりとめのない3冊だと思うが、あの頃のわたしにとって、前者2つはどちらかというと泥くさい人間的な感情や営みに対する興味関心を、後者はその真逆にある無機質なおしゃれへの憧れを体現していたのだと思う。
話は逸れたが、『疾走』には、80年代前半の世界の都市にたむろする若者たちの姿が写されていた。
日本を代表する写真家橋口譲二の写真集『疾走 / Shissou』。本書は、80年代前半にロンドン、リバプール、ニュルンベルク、西ベルリン、ニューヨークを3ヶ月かけて旅して撮影されたスナップで構成された一冊。新宿での撮影を通じて、街角にたたずむ少年少女たちが発する去勢されていない生のエネルギー、同時に社会からはみ出しかけた「不良」たちを受け入れる「都市」の役割に興味を抱き、新宿を飛び出して世界の大都市に飛び立った橋口。自由を願い自由に窒息していく若者たちの肖像を通して、彼らの純粋なこころや都市の変貌までをも鋭く描写していきます。
株式会社ステイリアル. 「疾走/橋口 譲二」.Made in wonder.
<https://made-in-wonder.com/item_detail.php?item_id=1353>(参照日2020年9月22日)
わたしは当時、地方都市という密な社会から抜けだし放たれた大都市で、学校を休んでは本屋や図書館をハシゴしていた。誰からも干渉されずに、ことばと本の海に埋もれて、その気になれば何にでも手が届くし、何にでもなれるように思えた。そこには、たしかに、自由があった。
一方で、その自由が、何も為しえないかもしれない自己への恐怖と焦燥、劣等感を煽るようで、いつも、苦しかった。
「でも、十分に自由だったのに、何者にもなれなかったとしたら?」
今、わたしは38歳になり、なお、何者にもなっていない。この20年で背負い込んだ不自由を返す返す数えながら、それでも、悪くない人生だと思っている。
でも、時折、ふと「自由に窒息する」ということばとともに思い出すことがある。自分が手にしていたぬるりとした自由の感触と、白黒の写真の中の若者たちのザラッとした質感、何者かになろうとしていた18歳のわたしを。
*Artwork: Edyth Dekyndt, ”One Tousand and One Nights”, 2017, instalation in "Arsenal", 57th biennale International Art Exhibition,Viva Arte Viva
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