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わたしにとっての「創作」


創作をする理由

 わたしにとって創作とは、「持っていないものを自分の手の中におさめる」行為なのだと思います。

 たとえば仲の良い家族、あるいは極端に仲の悪い家族。兄弟。男としての性、美しさや頭脳、信頼関係や友愛、恋愛にいたるまで、現在の私が持っていないすべてのものをこの手におさめることが、わたしが創作をするすべての理由なのだと思います。
 物語を完成させ手元に置くことで、現実のわたしの渇きが癒されるような気がするのです。自己投影をして書くことはめったにありませんし、キャラクターとわたしは乖離した存在であると思っていますが、それはそれとして作品は私の手元にある存在です。それを書ききりわたしの傘下とすることで、わたしは自分の人生を彩ろうとしているのだと思います。
 そもそも私は「書く」という行為が特別好きなわけではありません(もちろん心底憎らしいほど嫌い、というわけではありませんが)。書くことでフラストレーションが発散されるようなタイプでも、書くことが好きだからつらくても書くというようなタイプでもないのです。あくまで自分が手の中に持っている才能の中で、いっとう恵まれたものを磨き、持っていないないものを取り返したいと、身勝手に思っているのです。無意識のうち、自分はすべて持っていたはずだと、己は全知全能だとでも思っているのでしょうか。まったく傲慢なことですが、それで少しでも呼吸がらくになるのなら安いものだとも思います。


物語を書くために

 持っていないものを書くために、わたしはどこか遠いところから物語を借り受けているような気がします。執筆活動をしているとき、わたしはなにか、天から降ってくるものを受け止めるうけざらのようになっていて、折りてくるものを受け止めては、わたしの好みなように並べ替え、作品を作っているような心地です。
 ここを彫るんだよ、とおおまかにしるしのつけられた木彫りを彫っているような、そんな気持ちにも似ています。天からいただいた丸太をしるしの通りに彫り進めながら、もっと良い形になるよう、細かい部分はこっちで調整する。こちらの技術不足で掘り進めすぎてしまったり変になってしまうことこそあれど、天啓のように振ってきたそれはきちんと彫りさえすればうつくしいものがたりになるのだと、無邪気に信じられるゆえんもそこにあるのでしょう。

 わたしはわたしの物語が好きです。筒のようになって天からいただいた完璧たるそれをどのように仕上げるか、それが私にゆだねられているだけなのだと信じることができます。幽霊だのお化けだの呪いだのの類はまったく信じないわたしですが、その点だけは確かに信じられる不思議なところです。
 たまに自分の作品を読み返すと、どうしてこのときのわたしはこんな文章が書けたのだろう、と心底不思議に思うような思想やものがたりがそこにあるから、そう思うのかもしれません。

 だから筆を執っているのだと思います。

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