5月に観た映画徒然:『トラペジウム』/『劇場版 ウマ娘プリティーダービー 新時代の扉』


・トラペジウム


・「東ゆう」というペルソナ
事前に色々見聞きした上で映画を観たけれど、結局「『東ゆう』とその周辺描写に理解を示せたかどうか」でこの映画の評価は二分されるんじゃないかと思った。
確かに彼女は利己的で、独善的で、打算的で、自己正当化が上手い、つまり人間的に"イヤな"所が多いキャラクターだし、実際に彼女が過程を蔑ろにして結果だけをいち早く掴みに行こうとするからこそ、物語は盛大な破局を迎える訳で。
でも、そんな所だって彼女の一面的な部分でしかない。真面目で、努力家で、夢にひたむきで、その為の計画だって立てる行動力があるとも言える。
人間、良い所もあれば悪い所もある。そして、それは状況によって容易く反転する。
その妄執のせいで、自ら作り上げたコミュニティを容易く破壊したように
その情熱がなければ、アイドルになる夢を叶える事は決してできないように
だから、重要なのはペルソナに対する是非ではない。
その軌跡。意図するにしろしないにしろ、彼女が遺してきたものはなんだったのか
夢が挫けたあとに残ったものだったのか。
他者を無理やり自分の夢に巻き込む、そのやり方は確かに間違っていた。だが、誤ったやり方で得たものは、本当にまやかしでしかないのか?
それを問う物語として「トラペジウム」という作品は生まれたのだろう。

・「持つ者」と「持たざる者」
この物語において、東ゆうは常に「持たざる者」だ。
人よりは美人かもしれない。だが、1人ではオーディションには受からない程度の才能。だからこそ、他人を自らの夢に接続しなければ、彼女はアイドルという夢へのエントリー権すら得られない。
その前提の元でこの物語は始まっている。即ち、彼女が夢を叶える上で、「他人を利用しない」という正攻法を既に失っているのだ
そして反対に、他の3人には華がある、つまり「持つ者」である。ルックス・キャラクターなど、アイドルに持ってこいの逸材だ。
と、ゆうはそう思ってスカウトしたし、実際それは正しかった。
東ゆうの特異な所は、自分と他3人の対比そのものにはシビアな視点を向けている事だ。
そもそも、そうした分かりやすいアイドルとしての才能の多寡について言及する事は作中ではない。東ゆうという少女にとっては、そんな事は問題ではないのだ。
努力が足りないなら努力をするだけ。アプローチを変える必要があるなら変えるだけ。持たざる者がアイドルになる為には、持つ者を内に引き込むだけ。
彼女の妄執とも言える狂気は、「素質を持つものがなぜ『アイドル』を目指さないのか(努力を行わないのか)」という 、自身のアイドルへの夢と真面目な努力家というペルソナが融合した独自の価値観によって生じている。
それは『自分ならやれる』という自己愛の強い自信家の側面と、他者との相対化による自己評価の低さの両面を生み出す。
そして、その価値観を以て、他人まで自らの内側に引き入れた時……そこにはスタンスの異なる他者との軋轢が生じる。
終盤、度重なるゆうからの要求やアイドル業のストレスによって、遂にくるみが狂気に飲まれたシーン。蘭子の問いかけに答えるゆう。
持つ者が、なぜアイドルを目指さないのか?
彼女にとってそれは心底からの疑問であり、それが否定されてしまう事は、持たざる者である自分の否定にも繋がる。
彼女は信じたかった。自分の見込んだ通り、仲間たちとアイドルになる夢を叶えられる事を。
彼女は信じたくなかった。持つ者でありながら、その成功を望まない者もいるという事実を。
その結果、彼女は破滅した。

・「失った物」と「残った物」
東ゆうにとって、アイドルになる事が全てだった。
だから、その過程は重要ではなかった。
3人に近付いたのも、ボランティアを行ったのも、番組に出るのも、すべてはアイドルになるため。
その為に計画を練り、必要であれば計画を破棄した。
彼女が造作もなく何かを"捨てられる"キャラクターなのは、味噌汁やチラシを捨てるシーンにも描かれている。
だが、全てが終わり、夢破れた時、そこに残っていたのは、4人での活動に青春を捧げた彼女"たち"の足跡だった。
くるみは、ゆう達と初めての友達として過ごした日々を述懐する。
蘭子は、未知に飛び込んだ事で変わった自らの運命を尊ぶ。
美嘉は、ゆうに救われたあの日の事を今でも胸に抱く。
打算であっても、不本意でも、そこに残った思い出は本物だ。
「持つ者」だった3人は、それを胸に、ゆうに感謝を述べてから、自らが進むべき道へと戻っていく。
ゆうにとっては……随分甘い結論かもしれない。3人に絶縁されても文句は言えない、そこまでの仕打ちを、ゆうは行ったのだと非難する事もできるだろう。
だが、それは観客の仕事ではない。彼女たちがゆうの事を是とし、赦しを与えた物語に、兎や角言う事はもはやない。
彼女たちの中に残ったものがある、それだけが真実なのだから。
 

・『劇場版ウマ娘 新時代の扉』


・今もウマは「動く」

「動く馬」、という写真がある。


これは"馬が走る場面"を撮影した複数枚の写真を繋ぎ合わせ、"馬が走っている様子"を1つのアニメーションとして構成した連続写真群の事だ。
1878年、まだ「動画」という概念すら浸透していなかった時代。
この「動く馬」は、後の"映画"へと続く、映像史の新たな時代の扉を開ける存在として世に放たれたのである。そして、その被写体として最初に選ばれたのは、人類の文明の発展と共に歴史を歩んできた動物である、馬。
それから146年後。
奇しくも、『擬人化された競走馬』をコンテンツの主題とする「ウマ娘」。その映画の冒頭に、「動く馬」のオマージュのような映像が登場する。いや、この世界では「動くウマ娘」、だろうか。
『新時代の扉』。そう題された物語は、2001年クラシック戦線を題材とした「新世紀のレース」という意味の他に、ウマ娘というコンテンツの中で初めての映画アニメーション作品、という意味もあるだろう。その物語の冒頭に相応しい映像として、「動く馬」が選ばれた事は、一体どれ程の意味を持つというのだろう。
映画の祖から、最先端の映画へと。馬は今も我々と共に走り続ける。そして、新たな時代の扉は、いつだってその走りを極めた者の先にある

***

「動く馬」の存在によって世界に示されたのは、「走る」という動的な行為でさえも、「静止する一瞬」の積み重ねによって成り立っている、という発見である。
すなわち、ただ一心不乱に走り抜けたように見えた物語の中にもあらゆる「一瞬」が存在し、それが積み重なって一つのストーリーとして成り立つ、という事実がそこに表れている。
『新時代の扉』の主人公・ジャングルポケットは、その「一瞬」の煌めきに心を囚われた者の一人だ。
ある日、不意にレース場で観たフジキセキの走り、それは彼女の中の"走る為の衝動"となり、やがて「最強」を目指すキッカケになる。
物語のライバルとして立ち塞がるアグネスタキオンはどうだろうか。彼女はより自覚的に、この「一瞬」の重要性を捉えていた。
自らがもはやこれ以上走る事のできない体である事を悟った時、「一瞬」の煌めきを周囲のウマ娘に見せつける事で、自身の代わりとなるウマ娘達に走りの可能性の先を探求させんとした姿からも、その事が伺える。
ポケットに夢を魅せた張本人であり、自身の元トレーナーまで紹介するという、いわば憧れの"姉弟子"とも言えるフジキセキは、その強烈な「一瞬」が過ぎ去ってしまった者として物語に関わる。
「もう私の時代じゃない」
そう独りごちる姿は、いくら望んでも永遠に全盛期のままで居る事は決してできない、アスリートとしての、否、種族としてのウマ娘の限界を表している。
しかし。それでも。
「最強」を目指すが故に、願いを他者の介在に依存し、結果としてタキオンの見せた「一瞬」に囚われる事になったジャングルポケットにも。
「可能性」を求めるが故に、他者を自身の願いの先へ突き落としながら、そこに自分が介在しない事に違和感を覚えていたアグネスタキオンにも。
たった4戦の「煌めき」を胸に仕舞ったまま、今を走る者に願いを託しながら、何処か燻った熱を持つフジキセキにも。
そして、ポケットと共に走り、また、置いていかれまいと追いすがり続けるダンツフレームやマンハッタンカフェ達のような他のウマ娘にも。
たった一つ、彼女たちに許された特権。
それは、「走る」という事への本能。

"生きてく 意味なんて
ぶっちぎった後で 付いてくる
(勝ちたい!) そうこれは本能
(走りたい!)止まない衝動
(叫びたい!)勝利の雄叫びよ轟け!
"

───『Ready!! Steady!! Derby!!

冒頭に流れる映画の主題歌。この歌詞の通り、
「走りたい!」
「勝ちたい!」
「後先は考えず、とにかく今駆け抜けたい!」

というウマ娘のプリミティブな衝動の存在こそが、この物語の構造を肯定し続けている。
一瞬一瞬で立ち止まろうと、誰が横で走ろうと、走らまいと、最後、回転する連続写真には、自分自身が走り抜ける姿が映っている。それこそがウマ娘の本能なのだ。

タキオンが去った後、更なる強敵に挑戦する事で、自分の中の限界を越えんとしたポケット。
そして、ポケットの走りを観る事で漸く、誰かではなく、他でもない自分の足で「可能性」の先を観たかった事に気付いたタキオン。
『ウマ娘』は確かに史実の競馬史を基にした創作だ。だが時に、創作は本来の歴史で叶わなかったifを見せる事ができる。
史実でタキオンやフジキセキがレースに復帰する事はついぞなかった。しかし、ウマ娘の世界では、その"もしも"が存在する。
それは、若くして引退した競走馬に対して「もっとその走りが見たかった」と嘆く、人間のエゴの産物かもしれない。
しかし、少なくとも物語の世界においては、歴史によって走る事を宿命づけられた彼女たちの、ほんの些細な救いになればいい。

映画。そしてアニメーション。
それは「動く馬」という学術的研究の産物から始まり、いつしか現実を超えたイマジネーションを産むシステムへと発展していった。
ならば今、アニメーションの『新時代の扉』を開けるのは、一世紀半の間に発展し続けた映像技術か。あるいは、同じ年月走り続けた競走馬達の軌跡か。
その両方が、この映画を形作っている。
馬は今も我々の暮らしの隣に居続ける。我々をその背に載せて走る。ウマ娘という空想になって、新たな物語を背負い走り出す
そして、そんな歴史を絵柄に載せて、
あのゾートロープは今も動いている。


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