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過去の自分を超えられないと思った、けど

前のおはなし↓

あの頃はよかったなあと、思うときがある。
わたしにとってのあの頃は高校時代。部活に打ち込んでいた頃。

運動部で、ひとつの目標に向かってがむしゃらに頑張った日々。
プレーが上手くなり、練習の分だけ自分の成長が感じられたし、つらいことも仲間と一緒に乗り越えた。
毎日大変だったけど、それもいい思い出。
あの充実して、キラキラした日々に戻りたい。

ときどき、今の自分と高校時代の自分を比べて、輝きの差に落ち込んでしまうのだ。
今も、幸せではあると思うけれど…

こういう気持ちになったときは、思い出は美化されているよと、自分を戒める。
以前は、そんなとき、「たしかにつらいこともあったけど、それも含めて楽しかったし」と考えていた。つらくても、今よりは楽しかった、と。
でも今日、その思考回路からちょっとだけ抜け出せたのだ。

まず、時間をかけてつらかったことを思い出してみた。
練習はきつかったし、毎日拘束されて遊ぶ時間はないし、先生にも怒られたし。
でも、驚くべきことに、具体的なエピソードがあまり思い出せなかった。
なにか辛かったような気もするけど、なにが辛かったかすっかり忘れている。
人間の脳ってすごいなあ、と感心。
いつもはつらかったことをきちんと思い出そうとしていなかったから気付かなかったけれど、本当に思い出は美化されるようだ。

また、高校時代の辛いこと、楽しかったこと、全部の結果が今のわたしだと考えるようになった。
過去に戻って楽しいことだけを味わうことはできないし、たとえ戻ったとしても「つらさを乗り越えて成長した、辛さも楽しめる今のわたし」ではなく、「辛いことに文句を言うその時のわたし」でやり直すしかない。
高校時代、「辛いな、早く部活終わらないかな」と思っていたことを覚えているが、それはありのままの「事実」であって、ほんとうに辛かったんだと思う。100%楽しめる、キラキラした過去ではなかったのだ。

今までは思い出を美化してそこに戻りたいと思っていた。
でも、過去に戻らなくても、その思い出(経験)はわたしの血肉になっているはず。
つまり、過去のキラキラしたわたしと今のわたしは別人ではなくて、つながったものであるということ。
今のわたしは、今までのわたしの積み重ねであって、「楽しかったころのわたし」は今のわたしの中にある。
こう考えると、わたしは過去の自分との比較から離れることができた。
どの自分も自分なのだから、比べるのはナンセンス、ということか?
ことばにするのは難しいが。
今までの楽しかった思い出が今の自分を形作っていると思うと、過去との乖離ではなく、つながりを感じられたのだ。


「過去と現在の比較」からちょっと離れられたけれど、
「今」に対して文句を言う自分から脱却しないと、また過去にすがってしまうような気がする。

今を楽しみたい。

いつもそう思ってはいるけれど、「今」を楽しむためにはどうしたらいいのだろう?

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