『鋼の錬金術師』の等価交換を考える。

影響を受けた少年漫画ということで、触発されて私も書いてみる。
私が取り上げたいのは荒川弘『鋼の錬金術師』(ハガレン)である。ただ実のところ、読んだ当時に私がどんなことを感じていたかはあまりよく覚えていない。
ということで、現時点からの解釈がほとんどとなるが、ハガレンについて語っていきたい。

『鋼の錬金術師』は、エドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックの兄弟を主人公とするダーク・ファンタジー作品である。
幼少の頃、流行病で愛する母を失った兄弟は、その類稀なる錬金術の才能をもってして母親の蘇生(人体錬成)を試みるが失敗。エドワードは右腕と左足を、アルフォンスは全身を失うこととなる。
数年後、機械の義肢を身につけたエドワードと、魂だけを全身鎧に定着させたアルフォンスは元の身体を取り戻す方法を求めて国中を旅する。その過程で、国家を揺るがす謀略に気づき、巻き込まれていく物語である。

本作におけるキーワードの1つが「等価交換」である。
錬金術は物質の性質と形状を変化させることができるが、無から有を生み出すことはできないし、例えば水を土に変えることはできない(ただし、金属→別の金属への変換等は可能)。そして、錬金術師の力量を超える錬成をすると、追加の代価として肉体を持っていかれる。
そしてこの等価交換は、作中では、錬金術の法則としてのみならず、世界の理としても、人間への教訓としても語られる。
(物語における能力の設定と教訓が一致している、そういう作品が私は好きである。)

その等価交換の法則を破る(ように見える)アイテムが、賢者の石である。これを錬金術の触媒として用いると、未熟な錬金術師でもわずかな代価で絶大な錬成を行うことができるようになる。また、人間に埋め込んだりすることにより、人間より優れた生命体・ホムンクルスを生み出すことができる。
エルリック兄弟は初め、元の身体を取り戻すために賢者の石を追い求めるが、「賢者の石の材料は、複数人の人間の命(魂)である」ということを知ってからはこれを諦める。

等価交換というのは無から有を生み出せないことを示す法則であるので、見方によってはネガティブな制約にも思える。しかし、作中で語られる「一は全、全は一」(「私」は世界という大きな流れの中の一部であり、同時に世界のあらゆるものが「私」を作り上げている)という名言からもわかるように、等価交換とは、偏りなく調和するというポジティブなルールであるとも言える。

本作のラスボスである「お父様」は、アメストリス国民5000万人の魂を材料(犠牲)として最高の賢者の石を作り上げ、自身を神に代わる存在にしようとする。それはつまり、ひとつの個体が全リソースを収奪し、エネルギーを偏在させることを意味している。
その「お父様」を、エルリック兄弟と仲間たちが打ち破る。ハガレンとは、つまりそういう物語なのではないか。

私がハガレンから学んだことは、まさしくこの「世界の調和」ということである。
地球を閉鎖系として見れば、エネルギー総量は一定であるということは、現実世界においても事実である。その限りある土地・資源を人類が、そして人類の中でもさらに一握りの人間が寡占していることも。

「人は何かの犠牲なしには何も得ることができない」と最終巻の地の文は述べている。
夢の科学技術だとか、便利なアイテムだとか、必要な制度とか言われるものも、どこかで何か・誰かが犠牲になっている。
夢の化学物質フロンガスはオゾン層を破壊したし、夢の建築素材アスベストは中皮腫を引き起こした。
急速な重工業の発達は公害病を引き起こし、夢のエネルギー・原子力発電は多量の放射性物質・放射性廃棄物を垂れ流す。
日本で購入できる安価な海外製品は海外工場の低賃金労働に支えられているし、24時間利用できるコンビニエンスストアは店長と従業員の長時間勤務で成り立っている。
伝統的家族制度は主婦(女性)の無償労働により成立していた。日本を防衛するための在日米軍基地は地元住民の生活を圧迫している。

エルリック兄弟は幼さゆえのイノセンスから死者の蘇生を試み、無知ゆえに偽りの完全物質・賢者の石を追い求めたが、旅路の果てに真理を悟る。
私たちも、対価なき便益などという夢から覚め、人間にとって過ぎたるものを追い求めることを自制すべきなのだろう。

ただし、いたずらに犠牲を求めるのも私は嫌いである。
日本の「やさしい」右翼がよく「現在の私たちが苦労を背負うことで、将来世代が幸福になれる」とか「戦争で犠牲になった英霊たちのおかげで、今の日本がある」などと言う。
しかし、パレート最適を目指しすらしていない段階で何かを失うとしたら、それはただの無駄・浪費である。
犠牲を最小にする努力を重ねながら、犠牲なき便益に対しては疑いの目を向けることは矛盾しない。また、「犠牲がなければ便益はない」が真であるとしても、「犠牲があれば便益があった」が真であるとは限らないことも肝に銘じる必要がある。

ネット右翼は言う。「左翼の考える、排除や武力のない幸福論や平和論はお花畑で、我々こそが現実を見ているのだ」と。
それは現実主義(リアリズム)ではなく、ただの悲観主義(ペシミズム)と英雄主義(ヒロイズム)の混合物である。

七つの大罪が一、強欲の化身グリードは「世界の王」になることを求めたが、本当はただ、心通じあう仲間さえいれば充足していた。
七つの大罪が一、嫉妬の化身エンヴィーは人間を見下していたが、心の底では、弱き人間たちが憎しみを乗り越えて協力する姿に嫉妬していた。
等価交換では存在しないものを生み出すことはできないが、錬金術のように物の態様を変えることはできる。人々が連帯し協力しあえば、不足しているものを充足することはできる。「お父様」のように一人で完全無欠な存在にならずとも、私たちは「一は全」として、総体として発展を目指せばそれでいいのだろう。

まとまりのない文章になってしまったが、これ以上推敲する余裕がないので、これで筆を置く。
以下余談。

個人戦闘力としては間違いなく真のラスボスであるキング・ブラッドレイ大総統(=憤怒のホムンクルス・ラース)の発言が示唆的だなと。
「貴様一人の命と残りの数万の命とで同等の価値があると?
自惚れも大概にせよ人間
1人の命はその者1人分の価値しか無く
それ以上にもそれ以下にもならん」
これはブラッドレイ大総統への停戦の申し入れのために、自らの命を差し出すと言った最高指導者への返答であるが、
よく考えてみると、自らの生みの親である「お父様」への批判ととることもできるのであるな(「お父様」は人間ではないけども)。

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