アメリカにも家族はいる

ああ、2人目が居なくなってしまった。

アメリカでおばあちゃんのように慕っていた友人がなくなったそうだ。大変な田舎なのでコロナウイルスは全く関係なくて、それだけは救いだ。

もちろん十分なお年ではあるけれど、彼女のお化粧の匂いとちょっとひんやりしている肌と、老齢とは思えない力のハグを思い出すと、泣けてくる。

私と誕生日が1日違いで、それがなんだか嬉しくて楽しくて二人で笑ったこともある。

英語力が十分ではないので、早口で楽しげに喋る彼女の言葉を理解できないことは多々あったが、それでも家庭とは、夫との関係、不満、楽しいこと、道徳的なこと、買い物、人生のこと、息子のこと、お嫁さんのことなど、たくさんたくさん話をした。

旦那さんはこれまた更に年上のおじいちゃんで、長距離トラックドライバーで、多分80歳を過ぎても現役だったと思う。77歳の誕生日プレゼントがスクーターで、それを喜ぶ写真を見ているから、かなりの間現役だったはずだ。彼もまた力強いハグでいつも迎えてくれる。

その旦那さんいついての不満を、二度目の夏に聞いた覚えがある。すでにお友達になっているとはいえ、人生の先輩としての言葉とはいえ、こういうことも話してくれるんだ!と驚いた。同時に、世界中どこにいても夫婦とは家庭とは悩みとは同じなんだなと学ぶこともできた。

その人がなくなった。淋しい。

5年前に、私にとってはアメリカのママが急死した。聞くところによると手術の失敗による大量出血が原因で、その一報が入った時はすでにモルヒネが投与され家族を待っているところだった。私にできることは何もなくて、その家族に私の愛だけ伝えて欲しいと、それを頼むので精一杯だった。

(色々あって、ママは再離婚して違う土地で暮らしていた。それを知ったのもかなり後のことで、そのショックまでもが再発するくらいだった)

その後の一週間の記憶がない。毎日毎日仕事をして家に帰ってお風呂で泣き続けたことしか覚えていない。ちょうど仕事も異動で全く訳のわからない世界に飛び込んだばかりで、涙を流せるのがむしろ助けになっていたかもしれない。

その時に思ったのは、なぜもっと会いに行かなかったのか。色々あって連絡先不明の期間が長かったのは事実だが、それでも会いにいけたはずだということで。

それがずっと心に引っかかっていた。

ようやくママやおばあちゃんに最初に出会ったところに行けたのは2年前で、それですら遅かったけど、会えてよかったと思うことはたくさんあった。

ママがいなくなった場所で、当時はその息子くんの彼女→婚約者→妻になった友人が母になっていて、新しい世界を見せてくれた。明るいアメリカ人のイメージに合うような友人がいてくれて、私の居場所があるよと言ってくれたことが本当に嬉しかった。

だけど、また間に合わなかった。

おばあちゃんの具合がどうだったかは詳細は知らなかったけど、なんで去年行かなかったのか、でも行けなかったのだ、その繰り返しになってしまう。

更にはコロナウイルスで、国を出ることも家を出ることもしにくい状況になってしまって、きっと彼らのところに行けるのは早くても来年。遠い。

それでも、状況が良くなったら、まずは彼らのところに行きたい。会ってハグをしたい。それだけでいい。ハグだけして帰ることになっても、それでもいい。

アメリカに行ってみて初めてハグがどんなに嬉しいものか知った。ぎゅっと、時にはすごい力で抱きしめられて、元気だった?大好きだよ!と言われると、もうそれだけで幸せ細胞が増殖して行く気がする。増殖して増殖して、幸せ細胞だけで満ちている自分がいて、これが欲しかったって何度も思ったこともある。

嬉しくて楽しくて幸せで、ここに友人が、家族がいるんだって思えてくる。

家族は、生まれた家と結婚だけで増えるんじゃないよって、それをたくさんのハグが教えてくれた。

血縁でも法律でもなくて、ただハグだけで家族ができる。それがどんなにすごいことか、わかるまでに何年もかかったけれど。

わたしにはアメリカにも家族がいる。

コロナウイルスにだって引き裂かれない家族がいる。

おばあちゃんの死は悲しくて悲しくて淋しいけれど、彼女が教えてくれたんだ。わたしも家族だよって。

こんな、難しいタイミングで、悲しい知らせで、いろんなことを考えてしまった。

見ず知らずの(空港で迎えてくれるまで連絡しあったこともない、本当に見ず知らずの)日本人を、なんの区別も意識もなく普通に迎え入れて、ハグして、友達になって、家族にしてくれた人たちのことを、最高の家族だと思っている。

早く、会いに行きたいなぁ。


#キナリ杯

#書くと泣いてしまうこと



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