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小説 Lento con gran espressione

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月子は亡くなった大叔母から小さなお屋敷を譲り受ける。そこには花の咲きみだれる美しい庭園があった。大叔母は何故月子に家を残したのか?そんな中、ひょんなことからとあるピアニストの青年…
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2023年12月の記事一覧

【小説】Lento con gran espressione(3)

 お客さんが頼んだぶんだけコーヒー豆を挽く。アルコールランプに火をつけてフラスコに入った水を加熱する。サイフォン式の入れ方で、気圧の変化で上部のロート部分に下で沸かしたお湯を移動させるやり方だ。この入れ方はレインドロップの名物だった。カウンターにいるお客さんはその作業を眺めながら、会話を楽しんだりぼけっとしたりすることが多い。わたしたち店員もよく遠くから眺めている。  夜の十時になった。わたしと春菜ちゃんはテーブル席担当で今はお客さんがいない。接客することはなかったから二人で

【小説】Lento con gran espressione(2)

レインドロップは無音だった。音楽をかけないのだ。当然お客さんの声で店内は溢れていた。 「音楽、なんかかけてたほうが紛れていいんじゃないんですか?」  バイトの菅野くんが以前洋子さんに尋ねたことがある。  すると薄茶の前髪を指で遮りながら洋子さんは、こう答えた。 「音楽があると余計声を出しておしゃべりするでしょう? それに人が少ないときの静けさが好きなの。一人できてるお客さんにとってもいいんじゃないかな」  わたしは、なるほどと思った。洋子さんは音楽好きだけれど流さないのにはわ

【小説】Lento con gran espressione(1)

 ──『ゆっくりと呼吸する速さで歩けばいい。胸を張って優雅に』 急ぎ足のわたしにあなたはそう言った⋯⋯。   朝はブラックコーヒーみたいに苦手だ。五月なのに寒かった。まだ起きたばかりでアクビをしながら布団をずりあげた。するとふわっとお花の香りがした。そうだ、昨日持って帰ってきたテーブルブーケだ。コップに入れてベッドサイドに置いたのだった。確か洋子さんが教えてくれたジャックカルティエという名の薔薇だ。高級ブランドみたいな名前だ。なんだっけ? 淡い色のピンク。綺麗な。そんなこと