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車いすママの日常 2(父のこと)

父が50歳の時に、私は生まれました。

父は大失恋をして、「もうどうでもいい…」というなかば投げやりな気持ちで参加した結婚相談所主催のお見合いパーティー的なもので出会った母と、なんとなく結婚することになったそうです。

「おまえはその末の産物だ」

と言われた時のショックよ。
えええ、大恋愛とかじゃないのかよ!だから仲悪かったのかよ!という、妙に合点がいくところと、理想を打ち砕かれた悲しみと、当時の私は大忙しでした。まぁでも、結果としてこの世に生まれることができたので、わたし的には父が大失恋をしてくれてよかったわけですが。

ちなみに我が家は父も母も障害を持っています。父は障害名不明、体の変形が強く、しかし骨は丈夫で、身長が低い人でした。子どもの頃医者に「この子は3歳まで生きられません」と言われたそうで、それを鵜呑みにした父の父(私にとっては祖父)は父を学校に行かせることはせず、家に大事に大事に「置いておいた」そうです。

しかし医者の見立て通りとはいかず、幸いにも父は順調に成長しました。自分は学校に行かせてもらえない、しかし弟は学校でどんどん色々なことを吸収していっている。そんな弟を見ていて父はある時「このままじゃいかん。このままじゃ俺は1人で生きていけない」と気付いたとのこと。それからは本好きだった祖父の本棚の本を片っ端から読み漁ったと話してくれました。まず字が読めなかったのでひとつずつ調べながら、辞書片手にとにかくどんな本でも読み続けたそうです。

結局父は、ただの1日も学校というものに通ったことはありません。しかし父は数え切れないくらいの本を読んできたため、大変な物知りでした。難しい言葉も難しい漢字も間違いなく使えて、しかし書き順は教わっていないので自己流。小学生の頃の私は父に国語の宿題をよく教えてもらいましたが、「お父さんの字は書き順はめちゃくちゃだからアテにするな」といつも言われていました。書き順はめちゃくちゃでも父の字はとても綺麗で、私の自慢でした。

英語も得意だった父は独学で勉強したにも関わらず英字新聞まで読めて、学歴はゼロだったものの自分を売り込んで売り込んでやっと入社できた会社では英語の電話がかかってくるとみんなが父に回してきたというくらい、英語を自分のものにしていました。しかし数学は、足し引き掛け割り以外はできませんでした。「これは自分ではどうにもならなかった」そうで、大人になってから近所のそろばん塾に通って、日常生活に支障がない程度までは学んだと話していました。

父は努力家で、人一倍プライドが高く、かっこいい人でした。「障害があるからって小さく収まる必要はない、堂々と生きろ」という私の信念は、父譲りのものに他なりません。

父は孫が生まれたことを何より喜んでいました。毎日のようにメールと電話をしてきては「早く一緒にしゃべってみたいなぁ」と言っていました。メールの最後は必ず「おとっつぁんより」とか「じいじより」とかおもしろい〆方をしてくれて、それが私は大好きでした。

父は「好きなものを好きと言って何が悪い」というタイプでした。70歳をすぎてもドラえもんとミッキーをこよなく愛していた父の携帯は、電話着信音がドラえもん、メール着信音はミッキーマウスマーチでした。「お父さんはドラえもんとミッキーが好きなんだ!何が悪い!」と胸を張って言う父が私には誇りで、本当に大好きでした。

父は常に私の味方でした。絶対の味方でした。それが私にとってどんなに支えだったかわかりません。そんな父は、83歳で他界しました。

息子はこの時3歳で、だけど私は息子にじいじの亡くなった姿からお通夜、告別式、納骨まで全てを見せました。息子は幼いながらもその時の精一杯できちんと状況を理解していました。なにより覚えているのが「じいじにお手紙を書く」と言って、絵を描き始めたこと。何を書いたのか尋ねると「じいじ、お空に行ったら、サンタさんと友だちになっておいてねって書いたよ」との返事が。泣きました。なんてあたたかい手紙なんだろうと、涙が止まりませんでした。その手紙は父がしっかりと持って行きました。

父が亡くなって翌年の父の誕生日に夢を見ました。
亡くなったはずの父の誕生日会をしている夢で、私が「あれ?お父さん、この前死んだんじゃなかった?」と言うと父は「細かいことは気にするな」と言うのです。

父は物静かな性格だったにもかかわらず意外とイベント好きで、誕生日が近くなるとプレゼントは〇〇がいいなぁとリクエストしてくることは常。毎年毎年父の日が近くなると「木綿子!世の中には父の日って言うものがあるらしいぞ!父の日!父の日!」とアピールがすごくなり、当時まだ会社員をしていた私はある程度の収入を得ていたので、遠慮なくパソコンを買わされたり、腕時計を買わされたりしました。とにかく面白い人でした。今でも私がことあるごとに父の話をするせいか息子もじいじのことが大好きで、じいじと話してみたかったなぁ、としみじみ言っています。

3歳の時の息子が言った、印象に残っている言葉があります。
亡くなった父に対して、「ああ、じいじも天国で大変だねぇ。ひなちゃんやきのぼりたちの世話をしなくちゃいけないんだもんね。でもじいじがいれば安心だね」と言ったのです。
ひなちゃんというのは息子の前にお腹の中で亡くなってしまった赤ちゃんのこと。息子にとっては兄か姉です。きのぼりたちというのは死んでしまった金魚たちのこと。なるほど、息子にはそう見えているのか、と思ったらなんだか心があたたかくなりました。きっとじいじも毎日忙しくしているねぇ。そう思うとなんだか、心がほんわかします。

父は私にとって最大の自慢の人です。父に恥ずかしくないように、いつか私も向こうに行った時に父に胸を張って話ができるように、毎日を精一杯生きなくてはといつも思っています。私も父のように、笑うと本当に嬉しそうに目尻にたくさんシワがよるような歳の重ねかたをしていこうと思います。

続く。

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