見出し画像

車いすママの日常 7(胎内記憶と流産のこと)

息子があれはたしか3歳の時。
ある日突然、

「ママ、ママのお腹に入ろうとしたら死んだ赤ちゃんがいたから入れなくて、だからずっととうさんのお腹で待ってたんだよ」

と言ったのです。

ちなみにうちは私のことはママ、旦那のことはとうさん、と呼んでいます。

出産前にどう呼ばせるか、という話をした時旦那は「オレはどうしても、おとっつぁんと呼ばれたい」と言うので、それはあんた、いつの時代かね、と本気で焦り、断固拒否しました。私はおっかさん、とは呼ばれたくない。そこで幾度となく繰り返された話し合いの結果、お父さん、お母さん、で落ち着いたのです。が、息子は自分から「ママ」と呼び始めました。保育園で他の子が呼んでいるのを見て、真似したようです。旦那はパパと呼ばれることがどうにもむず痒くて耐えられないということで、とうさん、に落ち着きました。こんな変わった親で、息子も大変です。

私は息子を授かる前に、流産を経験しています。でもその話を息子にしたことはありませんでした。だから突然息子が「死んだ赤ちゃんがいたからお腹に入れなかった」という話をしたときは、驚きました。これが胎内記憶というやつなのか、と。

私が初めて妊娠したのは2005年の春でした。結婚して4年待ちに待った赤ちゃんで、まだ豆粒なのに名前を決めて、毎日旦那と二人でお腹に語りかけていました。幸せでした。空いっぱいに両手を広げて、これでもか!と幸せを振りまいている桜を見ただけで涙が出るくらいに、幸せでした。この桜を、来年は3人で見るんだと信じて疑いませんでした。

だけど、赤ちゃんの心臓は、確認できませんでした。

稽留流産という診断を受けてもなお、私はそれが信じられず、まだもう少し、まだもう少し、様子をみたいと先生にお願いしました。しかし結局心臓は確認できず、お腹の外に出す手術を受けることになりました。

なぜこんなことになったのか、あの頃は原因ばかりを考えていました。

私の母は変わった人で、愛情ももちろん感じましたが、日常的に言葉の暴力がとんでもなくひどい人でした。母は自分の父親から言葉の虐待を受けて育ったようで、だから仕方ない、母はかわいそうな人だったんだと今では心のどこかですとんと理解できるようになりました。でも幼少期からこれまで過ごしてきた出来事の中で、私は未だ母のことは許せないので多くは語れません。数年前に決定的な出来事がありそれ以来母とは絶縁しています。絶縁を決めるまでは「私はなんというひどい娘なんだ」「どんなにつらくても私は母の言葉を受け止めなければならない責任があるんだ」と思い、毎日必ずかかってくる電話にもきちんと対応し、苦しいながらもなんとか過ごしていました。しかし「もうあなたが壊れるから一刻も早く離れなさい」と助言をいただき、離れる決意をしました。おかげさまでそれまで原因不明で悩まされていた手の震えやめまい、吐き気などは嘘のように治り、今は穏やかに過ごせています。思い出すと苦しいのですが、ただこの時のことは綴っておきたいと思います。

妊娠がわかってから母は1日に何度も、電話をかけてきて、こう繰り返しました。

「もうおりた?」
「生理はきた?」
「もう終わった?」

私の障害は1/2の確率で遺伝するもので、私も母からの遺伝でした。だから赤ちゃんにも遺伝するかもしれない。それは分かりきっていたことでした。

でも障害があるからって不幸にはならない、自分の人生は自分次第だ、という信念が私と旦那には強くあったので、たとえ遺伝の可能性があったとしても子どもを望むことに迷いはありませんでした。

しかし母は「障害者が増えるのは世の中に迷惑なんだから、産むのはやめなさい。ね?やめなさいね?」と、本当にこんなふうな口調で、まるで優しく諭すように何時間にもわたって電話口で私に話し続けたのです。

当時まだ、それでも母に理解してもらいたいと思っていた私は、何時間でも説得を試みました。だけど堂々巡り。これが毎日になると苦しくなってきてつらくてたまらなくなってきて、そしてついに電話に出ることをやめました。

父は諸手を挙げて大喜びしてくれて、一緒に未来のことを楽しく語ってくれました。父はいつも私の味方でした。しかしその父が強く嗜めるにもかかわらず、母の口撃は止まりませんでした。

それが原因だとは言いません。母は母なりに、私の幸せを思って言ってくれたに違いない、と信じています。だけどやはりそれでも大好きな母からの言葉は刺さりました。

そして私の中にも確かに、全く不安がなかったか、と言えばそれは嘘になります。だけど、産みたかった。この素晴らしい世の中を、あの子にも知ってほしかった。

もしあの時、もっと早く母との電話を切っていれば。
もしあの時、私が不安を口にしなければ。
もしあの時、仕事をあんなに頑張らなければ。
もしあの時、もしあの時、もしあの時…いくらでも後悔は生まれました。

そして手術の前日。
病室に先生が来てくれました。
私がとても沈んでいると、先生は一言、

「大丈夫よ!次に入院するときは、産むときだから!」

と言ってくれたのです。
まだそのときは次にまた妊娠する未来があるなんて、想像もできませんでした。
ああでも、私はまた、妊娠できるのか、と漠然と思い、真っ暗だった未来に小さな小さな希望が灯りました。

1年経ってもまだできなかったら不妊外来にいらっしゃい、と先生が言ってくださったので、私はそれを希望に、また前に進み始めたのです。

続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?