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声の大きな人の違和感ある発言を、私たちは「仕方ない」と諦めてはいけない。

衆議院議員・杉田水脈氏の新潮45への投稿が、物議を醸し出している。
発端は、尾辻かなこ議員のこのツイートだった。

合いた口が、塞がらなかった。というより、衝撃を受けた。基本的に、ネット上で情報を見るときは「いろんな考え方の人がいるから」と思うようにしているのだけど今回のことを通じて、おかしいと思うことはちゃんと怒って、届けなきゃいけないんだと。

杉田氏について、度々の話題を見て全然違う思考をされる方だなと思うことはあったが、なぜこういう思考になるのか知りたくて新潮45を買い、全て読んだ。なかなかこんなに怒りを感じたりすることってないのだけど、今回は「なぜ怒りを感じるのか」を書かないとと心底思った。というより私たちは、こういった発言にちゃんと怒らなければならないんだと。彼女は、(自分の)正論を振りかざして、見えない力で暴力を振り巻いている。明らかに間違った事実を、この立場にいる人間が発言されることがなぜ許されるんだろう。違和感を抱いたことを、3つのポイントでまとめたい。

1.  解決できる差と、できない差の違い

まず、論点のポイントとしてLGBTが何を「生きづらさ」と感じているかという点が、以下のように語られている。

当事者の方達から聞いた話によれば、生きづらさという観点で言えば、社会的な差別云々というよりも、自分たちの親が理解してくれないことの方が辛いと言います。(中略)これは制度を変えることでどうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的嗜好を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。

と。何人に聞いて総論として語っているのかは謎だけど、これは誰にだって当てはまる、ごく当たり前の話だ。セクシュアルマイノリティでなくとも、例えば進学の時、好きな人を紹介する時、就きたい職の話をした時、何か自分の選択を親から批判されたり否定されたら、辛いでしょう。だけど、大事な存在だからこそ時には喧嘩したり、理解しようとお互いに会話を重ねる。

これは考え方や価値観の違いで起きうるもので、当人間でコミュニケーションによっては解消しうるもの。私が話を聞いてきた同性カップルの中にも、親から理解を得るまでに時間がかかったという人も多い。ただ、彼ら・彼女らはお互いに歩み寄ることで、その「気持ちの差」を乗り越えている。勿論、解決できないこともあるかもしれない。でもこれは、誰にでも起きうる問題。確かに、杉田氏が言うように社会は理不尽なもので、人や周りに理解してもらえない時だってあると思う。時には自分で乗り越えていかなければならないけれど、アウティングが原因で自死を選ぶ人がいたり、周囲の理解が足りずに傷つけられる人がいるとしたら、社会の空気を改善しなければならないということ。それがまだまだ知られていなかったり、ネガティブに停滞していることに対し、そういうものだから甘えるな、というのは乱暴すぎる。黙っていたら声の大きな人の意見だけが「当たり前」とされ続け、「社会の空気を良くしたい」という想いで活動している人たちの声には、偽善や度が過ぎると言う言葉が向けられる。マイノリティの生きづらさは、こういった社会の窮屈な空気にあるのでは。マジョリティに向けて、声をあげる人の存在も必要なのだ。

一方で、制度は?本当に彼女がいうように、フェアなのか。

例えば子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。

そもそも、人間が与えられるべき権利に差があることを「生産性」に起因させていることに、ゾッとした。子供を作ることだけが、生産性?日本で働きたいと願う若いカップルが結婚できないことを理由に、海外に出ていっている事実をご存知だろうか。杉田氏はご結婚されているようだけど、同性カップルは「お互いに好きな人と結婚したい」と思っても婚姻関係を結ぶことができない。なぜ?性別が同じだから、ただそれだけ。人間的な差は何もないのに、同じ権利が国から用意されていない。認められないから、国や行政に「私たちは結婚したいんです」と歩み寄ろうと活動している人がいる。そんな人たちに、一方的に「あなたたちには生産性がないから、税金を使って行政を動かすほどのことではない。」と。じゃあ、その「権利の差」はどうやって乗り越えられるのだろう。

時代は進み、同性カップルや、1人で生きていきたい人が子供を持てる手段も出てきた。なのに、精子提供は不妊治療に取り組む法律上の夫婦しか受けられないなど、なかなか理解や制度が前に進まない。国の仕事は「生産性がない」とマイノリティの人を切り捨てることではなく、世の中にある方法や可能性をどうやったら活かせるかを、一緒に考えることではないのか。

困っている人の声を、想いを聞くべき立場の人が、こんな発言をしてたくさんの人々の気持ちを一方的に跳ね返していること自体が腹立たしいし、悲しい。本来、並列で語れるものではないけれど。あまりに問題を混在させすぎていて突っ込むポイントが多過ぎる。

2. LGBは性的“嗜好”ではない

杉田氏は、LGBTのうちL(レズビアン)G(ゲイ)B(バイセクシュアル)は性的“嗜好”=自分で選択できるもの、T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」だから“障害”=どうしようもないもの、だと分けて語っている。

T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、辛いでしょう。(中略)一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、周りに男性がいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と結婚して、普通に結婚していきました。

性自認(心の性別)と性指向(誰を好きだと思うか)は確かに違うが、L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)の人たちは、それを好んで選ぶわけではない。現に、自分がそうだと認めたくなくて長く苦しみ、ストレートだと思い込もうとしている人だっている。自分のことを認められず、周りにも言えず、苦しんで死を選んできた人だっている。そもそも選べるのであればなぜ皆、楽な方を選ばないのだろう?さらに言うと、T(トランスジェンダー)の方も、第一には性自認という壁があるが、その先の性指向はそれぞれ。例えばトランスジェンダーの女性(割り当てられた性は男性、自認は女性)で、かつ恋愛対象が女性(いわゆるトランスジェンダーでありレズビアン)という人もいる。いつか詳しく書きたいが、Netflixでsense8という素晴らしいドラマがあり、そこに出てくるカップルがまさにトランスジェンダーの女性と、レズビアンの女性同士のカップルなので、知らない方は是非観てみて頂きたい。(演じているのも、トランスジェンダーの女優・ジェイミークレイトン)

ドラマの話は余談になってしまったけれど、そういった歴史や状況を無視して、自分の理解できない領域を「このようなものだ」と間違った定義でメディアで堂々と発言することが、なぜ許されるんだろうか。

LGBというからおかしいのであって、性指向でいうとここにはストレートも入る。分けるべきだというならば、「LGBS」と並べるのが本来だと思う。物心ついた時から、異性が好きだったり、同性が好きだったり、どちらも好きになったり、そもそも恋をしなかったりするだけ。

マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道するかことがいいことなのか。普通に恋愛して結婚ができる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と不幸な人を増やすことにつながりかねません。

もう何といっていいか、もはやわからないけれど。多様性の時代だから、いろんな愛の形があって当然」ではなく「いろんな愛の形が認められ始めたから、多様性の時代になって来た」という順番ではないのか。


普通に恋愛して結婚ができる、の普通って何なんだろう。
同性愛の人が不幸な人って、誰が決めたんだろう。


3. 「常識」や「普通」は、常にアップデートされていくもの

「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私はそうした社会にしたくありません。

「常識」や「普通」を見失うのではなく、それは常に時代に合わせてアップデートされるべきものだと思う。人間は長い歴史の中で、その時々の価値観を、時に壊し、更新しながら進化してきたはず。白人至上主義が「常識」、黒人が奴隷であることが「普通」であった時代や、ナチスドイツがユダヤ人を迫害することが「当たり前」に行われていた時代を、人は反省し、過ちだと認め、自分たちの価値観を変え、当たり前に人権が認められ、皆が生きやすい社会=多様性のある社会をつくる努力をしてきた。

今回の記事を読んで、こういった意見が当たり前に国創りを担う立場の人からの意見として全国に発信されることの方が、社会はいずれ崩壊していくことになりかねないなと思った。私は、そうした社会に、生きたくない。

今、私はRe.ingという指輪のブランドをつくっている。結婚というものが、1対1の男女のためのものだった時代を超えて、今の時代、1人で生きていく人もいれば、ペットと生きることを決めた人もいる。同性のパートナーと結婚したいと願う人もいるし、夫婦の意思で別姓を望み事実婚を選ぶ人もいる。そんな時代に、男女の結婚という形だけが「パートナーと生きる」「誰かと生きる」という選択として祝福されるべきものなのか、それが本当に時代に合っているのか。20世紀の「普通」とされてきた、パートナーシップの形を問い直したい、という想いで始まったもの。

今の社会は、あまりに過去の価値観に固定されすぎていることが多い。家族とは血が繋がっているもの、結婚とは婚姻関係を結ぶもの、親子とは同じ苗字であるべきもの。私たちは生きる上で、自分の家庭を、メディアを、あらゆる情報を通じて、それを「普通のこと」として何の疑問もなしに生きてきた。

だけど、本当にそれは「正解」なのか。あるいは、誰かが「正解」と断言できるものなのか。自分らしく人生を生きるって、今ある制度や社会の価値観を前提として、その上に成り立たせるものなのだろうか?と。

私は、人生は「誰と、どこで、何をして生きるか」だと思っている。
人生は自分でつくるものだからこそ、自分で選択すべきだし、その選択には責任も伴うものだと。大事なのは、皆が同じように「選ぶことができるか」という点。勿論、何でも許されるべきという話ではない。同性婚の話題になると、必ず線引きの問題に転化されることがある。同性の結婚を認めるなら、幼児愛はどうなるのか、機械と結婚したいとしたら?など。そういった論があまりの飛躍で短絡的すぎるのだが、関係性の場合、大切なのは双方が意思を持ってそれを選択できているかということにあると思う。同意の話。そして自分で責任が取れるならば、その選択は国や社会、そして人から否定されるべきものではない。それが平等に、自由に生きる権利が与えられているという状態だから。

まだまだ議論されるべき課題はたくさんあるし、何が正解なのかは皆が模索中ではあるけれど。これまでの「常識」や「普通」を前提として思考停止にはなりたくない。これからも、今の時代に社会で生きていくってどういうことなのかを問い続けることをやめたくないし、人は歩み寄ることをやめたら終わりだと思う。

自分の中の「普通」や「常識」を基準に周りを規定するのではなくて、相手の立場に立って、歩み寄るポイントを見つけること。

もちろん、いろんな意見の人がいる。価値観の人がいる。だけどあらゆる人の人権自体が当たり前に守られてこそのそれだと思う。セクシュアルマイノリティの人たちへの差別的・侮辱的発言や、間違った発言を「いろんな人がいるから仕方がない」と諦めてはいけない。あたかも正論のように誰かの心を傷つけることは、見えない暴力だと思うのです。「自分が気に入らないから・理解できないから」と、手を挙げる人と何ら変わりがない。間違っていると思うことには違うと言える勇気を持ちたいし、ちゃんと届ける努力をしたい。


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