「お母さん」になりたかったセラピストの拗らせた話【note100日間継続・21日目】
「お母さん」に、なりたかった。
中学生の時にはすでにそう思ってたんだ。
私には子を産むことができなかった。
でも、それで良かったと今は思える。
「お母さん」になることは、リベンジに過ぎなかったからだ。
こどもはとても欲しかったから
いろいろ悲しいことが多かったけれど、
自分のこどもが幸せになれなかったら、
つまりお母さんとしてリベンジが不可能だとわかってしまったら、
私は、生きては行けなかっただろう。
私に乗り越えられる壁ではなかったのだ、と、今ならわかる。
ーーー
「お母さん」リベンジは、
自分の母親への欠乏感だ。
そして、「助けてもらいたいこども」だった自分の欠乏感でもある。
ーー
私は、目の前にハッピーじゃない人がいることが苦しい、と感じる。
不機嫌な人、悲しむ人、怒る人、苦しむ人、寂しい人、とにかくネガティブな感情に分類される人の状態を変えたい、と思っていた。
それは、母親を変えてあげたいと願う気持ちからだった。
母親を幸せにしたかったんだ。
母親の感情まで、自分の責任だった。
でも、母親をハッピーにすることはできなかった。むしろ、私がいることで、母親は苦しんだ(そう彼女は言ったのだ)。
これは、私にとっては絶望だった。
絶望は不快過ぎて、生きていく上で見たくはないものだった。
まだ10代だった私には、生きるパワーがまだあったのだろう。
絶望が怒りに変わり、「私ならこんな親になるのに」と自分のために記録した。
それを、将来自分が親になった時の参考書にしようとしたんだ。
そして、いつ生まれるかわからないこどものために、健やかな子宮を保とうと、ファストフードやインスタントのものを控えていた。まだ彼氏もいない頃の話だ。
母親の感情を背負うように、人の感情にも責任を感じ、自分の境界線がわからなかった。
小学生の頃からすでに責任感が強いことをアイデンティティとしていた自分は、結婚後、こどもが生まれる機会に恵まれず、仕事に自己存在価値を求め、骨折して鬱病になった。
そして整体師となり、キネシオロジストとなり、セラピスト、ヒーラーとなった。
ここから先のことは、もう少し未消化があるようだ。
現在は、セッションの活動を最小限に縮小し、稼ぎとしては自分がやってみたいことをする、と自分に許しながら、自分を知っていく取り組みをしている。
いわゆる癒しの業界への疑問もあり、自分を騙しながらセッションの活動を続けることが難しかったのだ。
業界や外側への不審な思い、不満はたくさんあるけれど、それも自分が見ている光景であって、
その元は、
「お母さん」になりたい自分の拗らせだった。
「助けてもらいたいこども」を助けたくなる、つまり、自分を助けたかった。
幸せな人がいないことを許せなかった。
「人を幸せにする」というコントロールをしたかった。
幸せにしてあげなきゃいけないのは、目の前の人でなく、足元にいる自分だった。
自分に責任が取れる範囲のことを、確実に満たしていくことが、私の責任だった。
人の気持ちを満たすことが私の責任ではなかった。
自己価値のために、人の成長の機会を奪うお母さんになるところだった。
「お母さん」になりたい気持ちは、人で満たすのではなく、自分に向けてあげるんだった。
まだ按配がわからないけれど、自分の中のボンディングがもうすでに出来つつあるよ、というサインだと思う。
自分の中の世界を満たした時、セラピーは不要になる、と、何年も前から思っている。セラピーが不要になるためにセラピストをしている、という生き方は変わっていない。そしてその方向にずっと進んでいるという自覚はある。
かつて業界で期待されていたにも関わらず、いろんなチャンスを捨ててしまったけれど、自分に忠実な方向を選んでいる今の生き方を気に入っている。
いろんな教え、過去の思い込みを一旦取っ払って、本当の自分の声を聴けるようになり、自分の声に忠実に生きる、その道にいるという確信はある。