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目覚めた人

彼には三つの死が訪れた。

最初は身体の死だ。

生まれた身体は死ぬ運命にあり、それから逃れられる者はいない。いつか彼の身体にも死が訪れる。

彼は死を恐れた。少しでも長く生きられるように身体の状態を気にかけた。自分が死によって消えてしまわぬよう、この世界で幸福を感じて生きていけるように願った。

もし自分が死んでしまっても、再び人間としてこの世界に生まれ変わりたいと思った。彼は身体としての自分で在り続けることを望んだ。

だが、自分の身体はこの世界での一時的な姿であり、必ず死を迎える運命にある。それが自然であり、彼が決められることではない。

彼は身体の死を恐れ続けて生きた。だが、枯葉が木から落ちるように、彼にも身体の死が訪れた。

二つ目は個人的エゴの死だ。

彼が感じている「私」という感覚は、自分と身体が同化した個人的エゴという存在だ。この個人的エゴは「私」の人生、「私」の世界、「私」の物を生み出していった。

これらは「私」と同一化する。そして彼はそれらを失うことに恐れを感じ始めた。彼はこの手で得たものを失いたくないと思った。彼は失うことに苦しみを覚えた。

自分が得たと思うものは一時的でしかない。だが、個人的エゴはそうとは理解せず、私が得たものがずっとそこにあるよう願う。

個人的エゴの存在自体が一時的だ。彼の身体が死を迎えたとき、同時に個人的エゴは得たものをすべて失う。

彼が身体であることを求めるなら、再誕生という形で得られる。それは個人的エゴが一時的であることを否定して、身体に永遠性を求めることで果てしなく繰り返される。

彼はその繰り返しの中で、いつか身体や個人的エゴが一時的な存在で、永遠ではないと気づく。その気づきによって、彼の意識が目覚め、同時に個人的エゴは死の眠りにつく。

最後は死の死だ。

身体の死と個人的エゴの死によって、彼は意識そのものとなった。自分が意識だと知ったなら、彼は身体や個人的エゴが自分だという認識に戻ることはない。

いまや彼は意識そのものだ。その意識は彼の身体と個人的エゴの死によって誕生したわけではない。この意識は彼が身体や個人的エゴという自己の幻想に取り憑かれていたときも静かに存在していた。

一体どれだけの間、それはそこに存在していたのだろうか。それには始まりといえるものも、終わりといえるものもない。

私たちが知っているような誕生も死も意識には存在しない。意識は誕生したことがない。そのため死ぬこともない。このことを知った時、死は死を迎える。彼の中で死が消え去る。

身体は経過する時間の中で自然に死を迎える。個人的エゴは、身体や考えが自分ではないという理解によって死を迎える。意識が自分そのものであると理解したとき、死は存在できず死は死を迎える。

この三つの死によって、彼は死を越えて存在していることを理解する。

意識という場においては、生まれたことさえなかった。個人的エゴが誕生を主張し、そこに起こる死の運命を恐れただけだ。

魂さえ生まれて死んでいく運命なら、それは彼自身ではない。いまや彼は魂を超えて存在している。どんなカルマでさえも彼に取り憑くことはできない。どんな神も彼を支配することはできない。

三つの死を通り過ぎた者は、あらゆるものから自由にならざるを得ない。

そんな彼を人は目覚めた人と呼ぶ。

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