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理由を求めない人

ある晴れた日の午後、彼は公園のベンチに腰を下ろして、目の前で咲いているバラを見た。その深紅のバラは、この時期一斉に花開き、あたりに甘い香を放ちながら風に揺れている。

彼はじっとバラを見つめた。いまこの瞬間、彼とバラの花が見るものと見られるものとしてそこに存在している。

彼はなぜいまここでバラの花を見ているのか疑問に思った。なぜ自分がバラを見ているのか理由が見つからない。

彼はゆっくりと目を閉じて、今日のことを思い出してみた。天気が良かったので公園に向かい、ベンチに腰を下ろして、日差しを楽しみたいと思った。実際に、いま身体を優しく包む日差しを感じている。

そしてふと風が運んでくる香に心地よさを感じて、目の前のバラに目を向けたのだ。自分が公園に行こうと思ったことが、このバラとの出会いになった。

彼はバラを見に行こうと思ったわけではない。それなのにこうしてバラの香りを心地いいと感じ、その花を見つめた。彼は神妙な気持ちになった。

バラはそこに咲いていた。バラにとって、そこで咲いている理由はない。大地の滋養と風の言葉がバラを育み、太陽がつぼみをゆるやかに解き放った。

そこにはバラの花を咲かせる流れがあったが、なぜという理由ない。それでもバラはそこで深紅の花を咲かせた。

なぜという理由がないことは自由に満ちている。理由がなくてもそれはそこに存在し、大事な何かを与えている。なぜという理由を求めることはは大事な何かを曇らせてしまう。

彼はバラを見ながら、なぜ自分が生きているのか自問した。その答えはすぐにやってきた。それは生きることに理由はないということだ。

バラがそこに在ることに理由はないように、生きることに理由はなく、理由がないために自由だ。理由を求める前に、いま生きている自由さを感じることだ。

それを「やらなければならない」と思っていても、それは理由なく起こり、何の制約もない自由の流れの中にある。

自由さの中に不自由さを見つけようとする必要はない。彼はきっと思い立って何かをするだろう。理由を求めることは、その自由さの中に制約を作り出そうとすることだ。

理由がないことに不安がよぎる。なぜこれをしているのか、なぜこれを選んだのか、なぜここにいるのか、なぜこんな考えが浮かぶのか、なぜ今なのか。

それを知ることで自分の行為の確かさを感じて、自分がいることの不確かさという不安を解消したい衝動が起こるのだ。

そこに答えがあるだろうか。答えをそこに求める必要があるだろうか。そんなことを考える中にも考える自由がある。

考えは自由に理由なくやってくる。自由とは自分の中の意識そのもののことだ。考えとは自由そのもので出来ている。そして彼は今「なぜか」を考えるのだ。

彼が考えるのを止めた時、圧倒的な自由が彼を包み込む。これが意識だ。彼はその意識とひとつになり、意識そのものになる。

彼はこの一瞬ですべてを理解した。ゆっくりと目を開き、やわらかい日差しの中で風に揺れる美しい深紅のバラを見た。    

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