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神を知る人

彼は神を信じていたが、神を見たことはなかった。神はあらゆるところにいると言われている。それなのに、なぜか神を見ることができない。彼にはそれが不思議だった。

なぜ彼には神が見えないのか。それは神とは存在そのものだからだ。

目の前に本が在るとすると、この「在る」というのが神だ。彼はそこに本以外の何も見ることができない。彼は「在る」を見落としている。

本は物質であり、それを世界に存在たらしめているのが「在る」という神だ。本と神は一体としてある。この「在る」という神は世界中に行き渡っていて、それを分断することはできない。

「存る」は世界中に偏在している。マインドの認識の次元において、物事はそれぞれ別のものとして分断されている。だが、「在る」はどんなものにも分け隔てなく宿っている。

そんな「在る」を感覚はとらえることができない。本がそこに在ると分かるが、彼が捉えるのは本だけだ。「在る」をわずかに感じることさえない。

本の周りには空間がある。そのことを知ってはいるが、普段、空間がそこに「在る」と認識することはない。私たちは空間を認識しなくても、本を見ることができる。

「在る」もその空間と同じだ。空間と同様に「在る」も認識対象からから外されている。よって神は見つからないのではなく、無視され続けている。

無視されても神は在り続ける。「在る」ことを神は止めたりしない。それがなくなれば世界は消失するのだ。世界はこの神の慈悲心で保たれている。

彼が神を無視したり見捨てたとしても、神は彼を無視したり見捨てることはない。神は「在る」ことで、いつでもそんな彼を存在させている。

彼の意識が覚醒して、認識の次元が存在に触れたとき、彼はマインドの認識の次元を越えて、「在る」ことを直接認識する。

彼は神を見つけたのだ。そしてこの存在として、自分がすべてとつながっていることを知る。

だが、マインドの認識が彼から消え去るわけではない。マインドの認識すら「在る」なのだ。その存在が否定されることはない。

彼が「在る」という意識で、すべてとつながっていても、マインドには対象の区別を認識することが起こる。それはその次元では必要なことなのだ。

覚醒した意識はそんなマインドの認識があっても、そこに「在る」が同時に存在していると理解している。どんなときでも、世界はすべて「在る」によって存在していると知っている。

「在る」は無視したり幻想だと切り捨てられるものではない。「在る」は神なのだ。彼がそこに「在る」を知るとき、神として存在している。彼が神でいるとき、世界の全次元を完全に理解している。      

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