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高校演劇とわたしの話

中学や高校での部活動は、文化部でも運動部でも卒業してから一切その種目と関わらなくなる人もいれば、その後も関わり続ける人もいる。わたしも後者の一人だ。

中学のときには全く興味のなかった演劇部に入ったことによって、その後のわたしの人生に多大な影響を及ぼすことになったのである。

小学校、中学校のとき、わたしはいじめられっ子だった。自分では普通だと思っていたけど、発達障害特有の多動や落ち着きのなさ、変な動きなどもあってクラスの中ではかなり浮いていたんだと思う。そういう変なところに目を付けられて、男の子の標的になった。学校にわたしの居場所はどこにもなかった。

中学の時、平日夕方に流れる大好きなローカルのラジオ番組があって、20代の若い女性DJたちが日替わりで番組を務めていた。いろいろな音楽を流しながらローカルな情報も聴くことができた。
わたしはすっかりその番組に夢中になり、しょっちゅうリクエストはがきを送る熱心なリスナーになった。毎日つらい学校生活を送る中で、このラジオ番組を聴くことが唯一の心の救いだった。やっと家以外の居場所を見つけた気がした。

そのうち、自分もラジオのDJになりたいと思うようになった。高校を卒業したら、東京アナウンス学院という専門学校でDJの勉強をするつもりでいた。なので、3年生で進路を決めるときは大学進学など全く目がなく、ただ海が近くて制服の色がグレー(夏服)という理由だけで進学する学校を決めた。

高校入学後、たまたま演劇部の部室前を通ったときに演劇部の先輩に勧誘され、新入生歓迎公演を部室で観ることになった。
そのときの上演作品は、大橋泰彦作の「ゴジラ」。人間の少女があのゴジラと恋に落ちるお話で、頭上から照らされる一本のライトの中で主人公やよいの長い一人セリフから始まる。突拍子もない設定だけど切なく悲しいストーリーに引き込まれた。セリフの一つ一つが胸を打った。

観劇後、舞台にすっかり夢中になったわたしは、演劇部への入部を決めた。入部後のオーデションでは、顧問の前で「ラジオDJを目指しているので、主役をやりたい!」とか何とか豪語したような気がする。ただ、歌が下手すぎて主役どころじゃなかったのだけど。

この演劇部では役者でもスタッフをやらなくてはいけない。1年生は本番中もスタッフと役者を兼任する。スタッフ選びでは、何となく音響と照明に興味を持った。そして最終的に決めたのは照明である。

公演回数は全国の高校演劇部の中でもかなり多い方だったのではないかと思う。大会への出場はもちろんのこと、4月の新入生歓迎公演、6月の文化祭公演、夏休みの合宿公演、ホールでの定期公演、クリスマス公演、さらには近隣の中学校向けの学校公演までやっていた。

演劇部はとても居心地がよかった。演劇部では自分らしくいられることができた。学校公演や大会のために授業のある平日に公休届けを出して教室から抜けられるのがうれしかった。

演劇部の公演はその多くを近隣地域の公共ホールで行う。仕込み図を書いて、ホール打ち合わせ、当日の仕込みも自分たちで行った。さすがにシュートは難しいのでホールのスタッフさんたちにお任せだったけど。

ホールの仕込みでは、ホールのスタッフさんにいろいろ教えてもらうことができた。今では考えられないが、当時はクセノンピンスポットまで高校生に触らせてくれたのである。

一年に何回もホールの照明設備を触り、本番を経験していると、役者よりも照明のほうが楽しくなってきた。3年生になる頃には、ラジオのDJではなく照明家になることを目指し、専門学校を東京アナウンス学院から姉妹校の東放学園専門学校照明クリエイティブ科に変更した。

高校を卒業して、しばらくはOGとして演劇部に顔を出していたけど、その頃は、小劇場での公演が楽しかったのもあってそのうち行かなくなった。高校演劇との関わりは、それからプッツリと途切れた。

専門学校を卒業後は、しばらく地元の印刷工場で働いた後、学校公演をやっているミュージカル劇団でスタッフとして働いた。たまに役者として登場したこともある。
劇団を辞めて照明会社に入社してホール管理の仕事に携わることになったのだが、学校演劇とは縁のないホールや劇場にいたため、それから12年くらいずっと高校演劇からは離れていた。

再び関わるようになったのは、一社目の照明会社を辞めて二社目の会社で配属された小さなホールで高校演劇の地区大会が行われたことだった。

不思議なもので、再び高校演劇とつながるとそこからまた繋がっていくのである。
ある日、今は別の高校で教鞭を執っている演劇部の顧問から電話が入る。演劇部のホール公演での照明を手伝ってほしいという。それから何度か、その高校演劇部の定期公演の際は照明指導で携わることになった。

そのときに指導した照明担当の生徒から、「将来は照明の仕事に就きたい」という相談を受けたときは本当にうれしかった。

それから再び仕事で高校演劇と関わったり離れたりしているうちに、なんと今度は高校演劇向けのワークショップを企画することになってしまったのである。

こうして振り返ってみると、高校演劇とは切っても切れない縁で繋がっているような気がする。逃れられない運命ともいう。

しかし、この縁をわたしは断ち切るつもりはない。高校演劇は学校に居場所のなかったわたしに居場所を与えてくれた。その恩返しのつもりで今後も関わっていこうと思っている。


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