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あのころ、日本中を駆けずり回っていた

20年前に劇団で仕事をしていたときのおはなし。

当時、ミュージカル作品を中心に学校向けの公演を行っている劇団に所属していた。職種はもちろん、役者ではなくスタッフ。この劇団では、1班につきスタッフは1名しか付かない。担当業務は、運転と照明と音響と制作。要するに何でも屋さんである。劇団事務所を川崎と大阪、福岡に構えていて、数班に分かれて全国を回っている。

劇団が所有するのは、ハイエースとホーミー、そしてコースター2台。私に与えられたのは、ハイエースのハイルーフロングタイプのMT車だった。

とむ1

この車に3演目分の衣装ケース、小道具ケース、背景幕、背景パネル、鉄骨、照明機材、音響機材、和太鼓を積み、さらに5人の役者を乗せ、これからB班として全国を走り回ることになる。

実はこの劇団、公演料金を格安で請け負っているため、かなりめちゃくちゃなスケジュールを組むところだった。劇団の本部、そして大阪と福岡にある事務所は、実はワンルームマンションに寝具が置いてあるだけ。ここが移動の拠点となる。よほど辺鄙なところでない限り、この3カ所から出発していた。

なかなかブラックな劇団だったのでたった1年半しか在籍しなかったけど、エピソードは枚挙にいとまがない。

ここでは、その一例をご紹介する。

とむ-2

役者が遅刻!16時発の最終フェリーに間に合うのか!?

集合は、川崎の劇団事務所に7時30分。が、一人の役者が40分以上遅刻。翌日は小樽での公演のため、八戸を16時発の最終フェリーに乗らないと間に合わない。やきもきしながら遅れてきた役者を待ち、すぐに出発。時間は8時を回り、東京料金所から首都高まで大渋滞。どんどん時間がなくなり、ロクに休憩も取らないまま130kmオーバーで東北道を八戸まで突っ走る。そして、何とか無事に乗船に間に合うことができた。人間、やればできると思った瞬間だった。

フェリーは豪華な船内で、ほとんど揺れることもなく休憩できた。そして、3時過ぎに苫小牧へ到着。そこからひたすら小樽まで走り、8時前に到着。
学校が開門するまでの間、しばらく近くの港に停めて休憩。しかし、暑くてろくに寝れず。

公演を終えて、市場で蟹を実家に送る。そのまま、函館へ移動。旅館に着き、ジンギスカンを満喫。翌朝、役者たちは早起きして朝市に出かけていたけど、くらげはぎりぎりまで寝ていた。

函館で公演を終えたあとは、港で海鮮丼。そのまま、青森行きのフェリーに乗車。22時頃に到着し、そのまま劇団へとひた走って帰った。かなりの強行スケジュールではあったけど、夏の北海道は楽しかった。

深夜に着いたのに、旅館のおかみがライチをごちそうしてくれた

この日は、秋田への移動日だった。役者たちの都合により、出発は午後になる。16時過ぎ、待ち合わせの上野を出発。途中、秋田道のSAで比内地鶏の串焼きを食す。旅館に着いたのは、深夜0時を回った頃。しかし、素泊まりにも関わらず女将は温かく迎えてくれて、ライチをごちそうしてくれたのだった。あの味は、今でも忘れられない。

ちなみに、そのとき泊まったのが秋田市内にある、えびすや旅館

先生にだまされた!まだ東海北陸道が建設中!!

この日は、岐阜の飛騨で午前と午後の二回公演だった。次の日は金沢で公演のため、金沢市内にあるペンションに泊まる。
この頃、北陸道と名神高速をつなぐ東海北陸道という高速が建設中で、そろそろ完成するかというときだった。学校の先生に確認したところ、ちょうど北陸道まで繋がったとのこと。これなら、さくっと北陸道に抜けて、金沢まで一直線である。

インターチェンジのあるところまで、ひたすら下道を日本海側へひた走る。2時間以上走って、ようやく飛騨清見ICへ到着。よし、これなら夜までには着くはず。珍しくペンションに泊まれるので、全員テンションも上がっている。

ところが、金沢方面はまだ工事中。

このときの絶望感といったらもう・・・。そして、力尽きる。これからまた名神まで戻って、米原から北陸道に入らないといけない。運転手交代。男性陣は運転免許なしチームなので、役者の女の子が運転してくれることになった。名神高速方面は開通していたので、そのまま東海北陸道に乗って名神高速を目指す。途中、スピード出し過ぎで御用となる場面もあったが、0時ごろに何とか無事に金沢のペンションに到着したのだった。
ああ、せっかくのペンションが・・・。

全線開通したのは、それから7年後の2008年である。

高速で居眠り運転!自損事故を起こす!!

鳥取での公演を夕方に終え、翌日は福島へ移動するために徹夜で劇団へ帰還。次の日は他の班との合同公演のため、福島の旅館に一泊した。
翌日、公演を終えて帰る昼下がりのこと。連日の疲れが溜まり、栃木に入ったところで睡魔が襲ってくる。あと、2kmで黒磯PA。よし、ここで休憩しよう。そう思った矢先、意識を失った。そして、衝撃を感じて意識を取り戻すと、ガードレールに車が激突し街灯が折れていた。

幸い、周りに車がいなかったため自損だけで済み、同乗していた役者も無事だった。車の傷は左側が凹んだだけだったため、警察の実況見分後、自走で帰ってくることができた。

破損させたガードレールおよび街灯、車の修理は劇団の保険で直せたが、社長に心配されるどころかこっぴどく怒られたの。怒られた理由は、人の命預かっているからではなく、修理代が300万円も掛かったからという理由だった。

午後の公演に間に合わない!!

もともと、仕込みとバラシの時間が考えられていない、めちゃくちゃなスケジュールだった。
午前中は大阪で公演、午後は滋賀での公演。公演後、さっさとバラし急いで滋賀の学校へ向かったものの、渋滞やらで開演時間に到着するという始末。

体育館では、劇団が到着するまでの間、生徒が歌ったり踊ったりして時間を繋いでいてくれている中、急ピッチで仕込みする。そのときに掛かっていたのは、しんごママのおはロックだった。

何とか公演を終え、くらげを待っていたのは教育委員会の担当者による、きつ〜いお叱り。ただただ、謝るしかなかった。学校を出て、劇団本部に連絡するも、「何でこんなスケジュールではできないことを言わなかったの?」と、スケジュールを組んだ本人に言われたのだった。

しんごママのおはロックは、今でもトラウマである。

次回に続く。


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