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日本中を駆けずり回っていたときの話・3

劇団時代のお話の3回目。

前回の話で書いた通り、ハイエースを廃車にしてしまったので期間はしばらくレンタカーに乗っていたのだけど、それから劇団にある日産ホーミーが空いたので、ホーミーが旅の相棒になった。これもまたMT車でかなり年季は入っている車だった。燃料は軽油。ハイエースよりもパワーが弱く、坂道ではすぐに速度が落ちる車だった。

とむ-4

とむ-5

夜中の高速で、不吉なものを見てしまう

それは、福島を深夜2時に出発し、青森の津軽を目指していたときのことだった。

草木も眠る、丑三つ時。周りには、一台も車がいない東北道。ふと、ヘッドライトで照らされた先に何か落ちているのを見つける。近づいてみると、そこにあったものは!!

車線の真ん中に転がる、ニホンザルの遺体。それをつつく一羽のカラス。

とても不吉なものを見てしまったが、その日は何事もなく津軽に着き、無事に公演を終えることができた。

油断していた!!

それは、常磐道で劇団に帰るときのことだった。この先2kmのところで事故渋滞が発生していたのだが、まだ順調に走っていた。途中のインターチェンジでパトカーが入ってきたのだけど、そのときは「この先の事故現場にでも向かうのだろう」と気にも留めていなかった。

しかし、そのパトカーは事故とはまったく関係のない車両だった。車列の一番後ろを、周りの車と一緒に120km超で走っていたハイエースは、あっさりとスピード違反で捕まってしまう。考えてみれば、サイレン鳴らしていないし、事故現場とは管轄も違うと気付いても、あとの祭りであった。

周りが飛ばしていても、安全運転第一。

高速でバースト!!

あれは、東北道下り方面を走っているときのこと。急に変な音がして、ハンドルを取られた。急いで、ハイエースを路肩に寄せてJAFに連絡。そのまま、岩槻か羽生ICが近かったので牽引してもらい、近くの整備工場へ向かった。

朝早いのにも関わらず、整備工場ですぐにタイヤを交換してもらい、無事に目的地へと向かうことができたのだった。

以来、JAFにはお世話になりっぱなしのため、自腹で会員になった。やっぱり入っておくだけで安心するし、JAFのお兄さんはけっこう親切だったりする。

恐怖の、早朝ガス欠

それは、福岡から大分に向かうときのことだった。前日は夜遅くに九州地域の拠点にしている、福岡市内のワンルームマンションに戻ってきた。ガソリンが少なくなってきていたが、まあ大分までは持つだろうしあっちで入れればいいやと思っていた。

早朝に福岡を出発し、大分道へ入る。途中SAへ寄ったけどガソリンスタンドが見当たらない。すでにエンプティマークが点灯していて、かなりぎりぎりな状態だった。下の道に降りてから入れることにして、目的地のインターチェンジを降り、まずはガソリンスタンドを探した。

どのスタンドも、8時開店。現在、7時

開店までまだあと一時間もある。このまま学校まで行くか?いや、途中でエンコは困る。さんざん迷ったあげく、開店まで待つことにした。やっと8時になったものの、すぐには開かず10分か15分待ってようやく開店。無事に満タンで学校に向かうことができた。

給油は、計画的に。

最後の最後で切符切られた!!

それは、劇団での最後の公演でのことだった。

私が劇団に入って一年後には、劇団の経営もかなり危うい状態だった。スタッフに与えられていた運転手当もいつのまにかカット。気付けば、正社員扱いのはずがアルバイト扱いになっていた。

そこで、他のスタッフ二人と社長へ抗議することにしたのだけど、社長からは「いやなら辞めてしまえ!」と反撃をくらう始末。じゃあ、もう辞めてやる!と夏に入っている公演を最後に、辞めることにした。

そして、最後の公演。レンタカーのハイエースで、大阪のマンションを目指して後続道路をひた走っていた。名神高速の養老SAで休憩し、関ヶ原へ差し掛かる。ここは急勾配のため、夜になると登坂車線と走行車線にトラックの長蛇ができて速度が一気に落ちる。ハイエースに荷物満載でさらに5人も乗っている状態で坂道を登ると、どんどん速度が出なくなる。このままでは80キロすら出せなくなるので、追い越し車線から一気に追い越すことにした。

そのとき、ふいにトラックの車列から出てくる、灰色のスカイライン。そして、ふと窓が開いたかと思うと天井にサイレン灯が!

そこのハイエースの運転手さん、路肩に寄ってください」

こうして、最後の公演で免停となった。

あとから、助手席の乗っていた人が「あのスカイライン、8ナンバーだから怪しいと思っていたんだよなー」とぽつり。そういうことは、先に言ってほしかった。

今ではもう急ぐこともないので、安全運転である。

あれからもう20年

私ががその劇団にいたのは、たった1年と3ヶ月だった。1学期2回、2学期と3学期は1回しか回っていない。それでも、あの頃のことを鮮明に覚えているのは、それだけ濃い時間を過ごしていたからだと思う。

あの頃一緒に回っていた役者たちは、違う子供向け劇団で活躍していたり、新たに学校公演の劇団を立ち上げたりしている。
このコロナ禍で苦境に立たされているところも多いのだけど、いつまでも子どもたちに夢を与えてほしいと思っている。

さて、私が劇団にいたときの話は、これでおしまいという予定だったけおど、あと1回だけ書こうと思う。
続きは、次回。



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