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学校公演で印象に残っている場所

学校公演の劇団にいたころのおはなしは、これが最終回。最初は1回で終わらせる予定だったけど、あまりに濃い時間を過ごしたため1回じゃまとまらなかった。

最終回は、印象に残っている宿と場所を紹介する。

在籍していた劇団では、大阪と福岡に事務所としてワンルームマンションを所有していた。私が入る前は旅館やホテルの宿泊がほとんどだったらしいが、私が入ってからは財政緊縮のためによほど辺鄙なところではない限りこのマンションを拠点にしていた。なので宿に泊まれたのは10回程度しかない。その宿自体も格安施設だったので、驚くような施設もあった。

ここでは、そんな非常に印象に残っている宿を紹介する。

え?ここ泊まるところだよね・・・??


それは、島根でのことだった。他の場所で公演を終えて夜遅くに米子自動車道の米子インターを降りた。妖怪たちが動き出しそうな静まり返った夜の水木しげるロードを通り抜け、原発近くの民宿へ到着。

着くなり驚いたのが、宿の入り口はアルミサッシの引き戸だった。そして、玄関の周りには物置みたいにいろんなものがごちゃごちゃと周りに置いてある。あまりに宿らしくない外観だったので、最初は入っていいのか戸惑うほどだった。

玄関を入り、ごくふつうの民家の廊下を通り抜け通された1階客室は、6〜8畳程度の広さで壁は板張り。ベッドは家庭で使う普通の2段ベッドだった。部屋には、洗濯ロープが張り巡らされている。お風呂は一般家庭と同じ広さで普通のステンレスの浴槽だった。

民宿とはいえ、まるで人の家に泊まるような印象だった。当時はもちろんAirbnbなんてものはなかったけど、今思えばある意味民泊みたいなものだったのかも知れない。それはそれで楽しかったのだけど、寝心地はあまりよくなかったため疲れが取れるはずもなく、翌日は寝不足でふらふらだった。

レトロなタイル貼り旅館

それは、岩手の山奥の旅館でのことである。昭和初期に作られたと思われる、木造の趣のある旅館。お風呂の浴槽は丸くてタイル貼り。これまた、趣があった。

ただ、とても気になる点が一つ。それは、トイレがボットンだということ。
しゃがむ向きはドア側。便器もタイル貼り。

実家が未だ汲み取りトイレなのでボットン便所には慣れているが、旅館で何個もあるトイレだと、臭いが半端ないのである。なるべく水分を取らないようにしたのは、言うまでもない。

印象に残っている場所

続いて、印象に残っている場所。ガイドブックに乗っている名所や、よく知られた場所は一切出てこない。

長崎県北高来郡森山町の牡蠣小屋

近くの小学校に向かって走っていると、突如道路脇に牡蠣小屋が現れた。
時間はまだ午前7時にもかかわらず、すでに営業中。これはもう、食べるしかない。他の役者はみんなぐったりだったので車の中で寝ていたが、一人だけ賛同する者がいたので、一緒に入ることにした。

プレハブ小屋の中には、大きな焼き網の乗ったテーブルと、ビールケースで作られたイスが置かれている。さっそく、洗面器一杯の牡蠣を注文。左手に皮手をして牡蠣を持ち、熱々を汁をこぼさぬように食べる。朝から、網で焼かれた牡蠣を口一杯に頬張る贅沢。おかげで、元気一杯で公演を終えることができた。

森山町はその後合併し、現在は諫早市になっている。

岩国の山中にある山賊の店

山口で時間があるときに必ず寄っていたのが、いろり山賊という店である。
この店は、山の一角すべてがお店になっている。

山陽道を降りてしばらく、細い道路を走っていると突如きらびやかな明かりに包まれた城が現れる。テーブルは店内だけでなく、屋外にも設置されていて、自然を満喫しながらを味わうことができる。中でも一番のおすすめメニューは、でっかい山賊むすびと、山賊焼き。

文章ではその全体像をお伝えしにくいので、いろり山賊で画像検索してみてほしい。

愛媛県西予市/宇和島街道の夕景

あれは、夏の日に西予で公演を終えて帰る途中のことだった。あのころは、まだ松山自動車道が大洲までしか開通していなかったため、大洲IC目指して宇和島街道をひた走っていた。

しばらくして、道路の右側が山で、左側の道の角にはレトロな店構えの床屋さんが建っている場所があった。時間はちょうど日が沈んで夕闇が迫る頃。辺りに人影はなく、ただヒグラシの鳴く声が響いていた。

信号待ちをしながら、その光景にふと心奪われてしまった。人が見れば何でもない光景だと思うけど、私にはなんだか叙情的に感じたのだった。

また、夏の夕暮れ時に行ってみたいと思っている。

熊本県山鹿市の草むらに捨てられていた一台の廃車

菊水ICで降りて、公演先の学校に向かっていたときのこと。学校近くの草むらには、1台の廃車が打ち捨てられていた。

その車は、昔実家で乗っていたスズキのフロンテだった。今ではアルトに取って代わられ、いつまにか消えていった車である。実家で初の新車だったのに、電気系統のトラブルで何度もチョークを引っ張ってようやくエンジンがかかるため、父が苦労していたのを覚えている。

そんな車と、まさかこんなところで遭遇するとは思わず、一人で感慨にふけっていたのだった。

鳥取県東泊町の浜辺

普段は大阪や福岡のワンルームマンションを根城にしているのだけど、この公演は3日間で近隣の学校を回るため、鳥取の旅館に連泊になった。

移動する時間がないため、公演が終わったらたっぷりと時間がある。季節はまだ9月。場所は、海のすぐそば。

とはいえ水着なんて用意していなかったので、近くのしまむらで短パンを購入し、さっそくお昼過ぎに公演を終えて海まで遊びにいくことにした。

夏が過ぎ、人気のなくなった海で心行くまでみんなで遊んだ。日本海の砂浜は、とてもきれいで静かだった。

能登半島有料道路

前日に宮城で公演を終え、東北道と磐越道を経由し、北陸道で金沢入りだった。夜中に金沢の非常に狭いビジネスホテルに泊まり、翌朝は能登半島にある七尾市目指して走っていた。

寝不足でふらふらだったものの、能登半島有料道路に入るとすっかり目が覚めた。この道路は海に面していて、朝日の当たった海面がとてもきれいに光り輝いているのが目に入った。朝の海は、疲れを忘れさせてくれる。

能登半島有料道路は、今では「のと里山街道」という名称に変更され、無料化されている。

相馬で食べた親子丼

小学校での公演後は、毎回撤収作業が終わったあとに職員室へ代金をいただきに伺う。そのとき、みなさんもどうぞと言われ、校長室でお茶をいただきながら談笑することもある。

その日は職員室でお茶を出されたあとに、何とお食事まで用意していただいていた。おいしいお店にご案内しますと言われて行ったお店は、海鮮料理のおいしい素朴なたたずまいのお店だった。そして、あとはごゆっくりどうぞと、先生方は学校へ帰って行った。

小さな個室でいただいたのは、親子丼。親子丼とは言っても、鶏と卵ではない。たっぷりと鮭の刺身といくらの乗った親子丼である。あの味は今でも忘れられないでいる。

2011年3月11日。震災が起きてあのお店と公演した学校はどうなったのか。今では学校名と店舗名が思い出せないため、わからないでいる。

どこかの街の夕暮れ時に感じること

夕暮れ時、どこかの町で車を走らせながら、ふと感じたことがある。

この場所で生活している人たちの日常生活の中に、ここには住んでいない私たちがいるという、何となく感じた違和感。旅とは、そういうものなんだろう。帰る場所があるから、旅をすることができるのである。

締めくくり

劇団にいたのはたった1年と数カ月だけど、未だに脳裏に何処かの景色が蘇る。それだけ、濃密な経験だったのかもしれない。

日本には、たくさんの何気ない素敵な風景がある。いつかまた、あのときに訪れた場所をもう一度巡ってみたいと思っている。できればカブで。


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