悟りの境地・すべては一つの完璧性の真実
ほとんどのスピリチャルリーダーの方が、「すべては一つ。」「すべては完璧。」とお話ししています。
悟りとは、その二つを真に腑に落すことです。
本当にこの2つが腑に落ちたのなら、この世界に「現実創造。」も「自由意志。」も「罪悪感。」も「自己責任。」も「罪・カルマ。」も、スピリチャルで語られているほとんどのキーワードが、本当は存在しないことがわかります。
人(エゴ)の欲求は、すべての人がと言っていいほど「お金が欲しい。」「異性が欲しい。」「結婚したい。」などで、今の現実を自分の思い通りに変えたいと思ってます。
なので今のスピリチュアルは、「現実創造。」「自由意志。」が人気なのです。
なぜ「現実創造」も「自由意志」もないのか?
よく考えてみてください。
本当に「すべてが一つ。」ですべての存在が「宇宙の源の意識。」であるならば、すべての意識は源の意識となります。
私「だれだれ」と言う意識があるならば、すべては一つではないのです。
私がある限り、それは源では無く「私。」になります。
「私。」と思って、自分で思考して自由に生きているように錯覚しているだけで、実は、源の一部であるハイヤー・真我から指令が来てるだけです。
現に決断する時の思考は3パターンくらいしかないです。
すべては、宇宙の源が、体験をしたくて作った自作自演のイミテーションの世界です。
3つくらいの指令が思考に来て、自分で判断しているように錯覚しているだけです。
それは、「すべてがシナリオを決めて生まれて来ている。」と言う言葉にも表れます。
もし「自由意志。」があるなら、生まれる前にシナリオを決めても、シナリオ通りには行きません。
映画の台本のように、忠実にすべての人の人生が絡んでくるようになっています。
だからこの世界は完璧であるのです。
「私。」が創造主であると言うのなら
よく言われるのは、「私は創造主だからなんでも創造できる。」と聞きます。
それが、本当なら創造主が人の数だけいることになり「すべては一つ。」では無くなります。
創造主は一人だけだから「すべては一つ。」なのです。
だからシナリオも完璧に回るのです。
もし「私。」が創造主であるならば
100人中100人が願えば、全員オリンピックで金メダルを取れるし、全員が総理大臣にもなれるはずです。
それができないのは、ただ一人の創造主が決めたシナリオであるからです。
「罪・カルマ。」は存在しないので「罪悪感。」を持たなくて良い
例えば、連続殺人鬼を捕まえる刑事の映画があるとします。
その連続殺人鬼の役者は、映画で20人殺しても罪を問われるでしょうか?
この地球上でも、シナリオの役を演じに来てるだけなので、罪もカルマも存在しないので「罪悪感。」感じる必要もないのです。
すべて源=ハイヤー=真我の指示通りに「私。」と言う存在が嘘の世界で行動してるだけなので、「自己責任。」と言うものもありません。
「あの時に、なんでこんなことをしてしまったんだ!」と過去を後悔する必要もないのです。
なぜなら、「私。」と言う存在は、シナリオ通りに源の望む通りに行動をしただけなので、「私。」にはなんの責任も罪もありません。
「私。」への「自由意志。」は無いのです。
すべてシナリオ(源・真我)の意思決定の通りです。
もし「私。」に「罪・カルマ。」があるのなら、「宇宙の源=創造主。」にも「罪・カルマ。」があることになります。
なぜなら「すべては一つ。」だからです。
「すべては一つ。」これ以外は存在しないから「すべては完璧。」が成り立つのです。
本当に悟ったらどうなるのか
まずは自分の中に完璧性を見るでしょう。
自分が完璧であることに、気付いたら他人やこの世界のすべての人やものに完璧性を見ることになります。
この世界がすべて完璧だったことに気付いたら、人に教えようとか、人を変えようとか全く思いません。
なぜなら相手も完璧なのに、何を教えると言うのですか?
「現実創造。」とか興味が無くなります。
物質や異性にも執着が無くなります。
「あってもなくてもどっちでもいいよ。」となります。
逆に「要らない。」と言うのは、強い執着の裏返しですね。
真我とつながっていられれば、何もしなくても「平穏・リラックス・幸せ。」でいられます。
ただ悟っても、現実は何も変りません。
「悟り。」と「現実創造。」は全く無関係です。
それを結び付けているうちは本物では無いです。
「悟る前、薪を割り、お茶を飲む。」「悟った後、薪を割り、お茶を飲む。」と言う言葉がある通り、悟っても現実は何も変りません。
悟りで変るのは外の世界では無くて、内側の世界です。
なので同じ現実でも、見え方は変わるでしょう。
「罪悪感。」「罪・カルマ」「自己責任。」とかのすべての重荷から解放されます。
悟れば、心身共に軽くなります。
軽くなるので波動は上がるでしょう。
波動があがるので、運が良くなったり、現実や環境が変わることもあります。
インドの聖者の言葉を載せて最後にしたいと思います。
ラマナ・マハルシ
「しなければならないことなど何もない。
ただ、そのままでいい。
何もしないで、そこにいなさい。
山に登らなくてもいい。洞窟で座らなくてもいい。
「自分自身でありなさい」とさえ言わない。
自分が誰であるかなど、しょせんわからないのだから。
ただそこに、あるがまま、そのまま存在しなさい。
何であれ起こらない運命にあることは、いかにあなたが試みても起こらないだろう。
何であれ起こる運命にあることは、いかにあなたが避けようとしても起こるだろう。
これは確実である。
それゆえ、最善の策は沈黙にとどまることである。」
Q「戦争は正当化できるのでしょうか?」
A「常に真我の内にあり続ける覚者にとって、一人の生命、あるいは数人の生命、あるいはこの世の全ての生命、または三界のすべての生命が失われたとしても。何の違いもありません。
たとえ彼が全ての生命を破壊することになったとしても、そのような純粋な魂に罪が触れることはないのです。
マハルシはバガヴァット・ギーターの第18章17節から引用した
「自我という概念から自由で、知性に執着しない人は、たとえ全世界を滅亡させようとも、彼が殺したということはなく、行為の結果に縛られることもない」」
ラメッシ・パルセカール
「人は自由意志をもっていません。でもだからといって、あなたがどんな瞬間にも自分の好きなことをすることの妨げにはなりません。
ですから、どんなときにも自分がしたいと思うこと、するべきだと思うことをやって人生を楽しんでください。
それがその瞬間の神の意志です。
でも、自分の意志が実行された時の結果は誰にもわかりません。
ある時は良い結果で、ある時は悪い結果で、どんな人もそれを受け入れることしかできません。
それを受け入れれば、罪悪感、プライド、憎しみ、嫉妬から解放され、人生は平和になります。
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