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自己愛の枯渇

お隣の家に
私の大好きな柿がなっている

鈴なりになっているし
お隣さんも留守みたいだ

ひとつくらい私がもいで食べたところで
いつも庭に遊びにくる烏の仕業だと

お隣の人はそう思い私のことは疑ことはなく
怒られることは多分ないだろう…と思う

民家はうちとお隣さんの2軒だけし
周りは畑や田んぼだらけの場所だし…

たとえ見つかってバレタとしても
そんなに重い罪ではないのかもしれない。

でも、もし、お隣さんがカメラを隠していて
そこに私が柿を盗んでいる姿がうつっていて

その証拠を元に訴えられたら
不法侵入や器物破損、窃盗などといったことで

私は犯罪者になりうることもある
ただ、お隣さんにばれなければ犯罪者にはならない

あなたならどうする? どう考える?
ここは、戦後70年後の日本。法律もある。

それでも、その時の一時の感情で
大好きな柿だからと我慢せず

お隣の家の庭に勝手にはいって
柿をもいで食べますか?

お隣さんがどんな気持ちで
その柿の木に思いをよせてるのかも知らないまま

みえてる情報だけで欲しがりますか?
奪って食べて知らんぷりできますか?

もし、その意味が深くて痛ましいことだとわかっても
あなたは罪悪感を感じませんか?

それを、人や個人情報に置き換えてみてください
物も人も情報も同じようにしか扱えないなら

それは、愛でもなんでもない。
単なる〝自己愛の枯渇〟だと私は思うのです。

法の下で問われるけれど、問われないこともあるなら
それらの行為を行ってもいいのか。

それは、個人のモラルやマナーになるかもしれないけれど
人としてという言葉でひとくくりにすることで

息がしづらく感じるかもしれないけれど
私たちが生まれた日本という国には

法律というものがあって
どのような立場の人もその下で営み生きているのです

法律は一個人の基本的な人権やその人を尊重をするための
この国で暮らすための共通のルール

知らなかったではすまされないこともある
感情があるからこそ

行き場のない感情や一個人では
どうすることもできない物事を

人や災害などで積み重さねてきた物事から
育まれた法によって罰せられるのだから

大昔のように一個人が人を罰することでさえ
罪人になること忘れてませんか?

だから、大きな火種になる前に
自身の非を認め、謝罪をすることで

戦火の火になりうることが
無くなってしまうこともあるだろうと思う

私は自身を大切にするようになってから
相手が現在地での困り感から脱するために

私を使いその場を越えようとして
その行為が私自身も苦しめることになることなら

私は首を縦に振ることなく受け取らずにきた
〝大抵の人がそれくらいのことやってるのだから〟といった

悪事の連れション行為は単なるマーキング
〝共に生きる〟ということは

共に悪いことをして生き延びるということではない
〝共に生きる〟ということは

共に平行次元の世界で互いの存在を認めつつ
融合ができなくても生きていくこと


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